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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(一)麦
収 穫 量
収穫量は畑によっても違うが、大麦は一反当たり八俵前後で、年によってはセダラといって反当たり一〇俵のこともあった。セダラは一畝一俵の意味である。小麦は六俵程度で、良くて八俵だったといわれている。
戦争中に穀物の統制令が出て供出(政府買い上げ)させられる以前は、俵に詰めた麦は物置に積んで置き、自家用以外は相場を見て穀屋に売っていた。穀屋は北本宿や鴻巣、桶川、川越などにあり、川越に持って行くと高く売れたという。また、小さな穀屋は各地区にもあって農家を回って買い集めることも行われた。
自家用に食べる麦は、大麦は半日くらい水に漬けてから干し、臼に入れて搗(つ)いて石臼で挽(ひ)き割にした。餅捣きの臼より大きなもので、杵は先が平なのを使った(米搗き杵は先が凹形にくぼんでいる)。この時には臼の中の麦の上に藁製の輪を三段程入れ、この中を杵で搗く。輪を入れると自然に麦が臼の中を回り、平均的に搗けるのである。石臼は各家に挽き割用と粉挽用の二種があり、時々石屋に目立てをしてもらって使った。
麦搗きは大正時代に動力を使った精米所ができるまで行われたが、楽な仕事ではなかった。フンドシと呼ぶ中の筋がなかなかとれず、一人では飽きてしまうので若い者が集まってイイヅキをすることもしばしばあった。数人が集まって各家の麦搗きを順番に行うのである。一人だと一日に一俵ほどでき、搗いた麦は唐箕などでヌカを飛ばしてから石臼でひく。なお、麦は精米所ができてから押し麦にして食べるようになったという。
脱穀して出た麦からは、御飯炊きに使ったり、庭に積んで堆肥とした。さらに竈(へっつい)で焚いて出た灰は肥料として使われ、捨てるものはなかったのである。

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