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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(三)ア  ワ
アワは第二次大戦中も一時作られたが、大方は昭和初期までであった。昭和初期には自家用だけで作付面積は少なく、一~二畝あるいは三畝から五畝、多くて一反などといわれ、なかにはオカボのサクのキレドに蒔く程度だったという人もある。キレドというのは種子を蒔いたが芽が出ないところのことである。しかし、アワは「照りアワ」といって日照りに強く、必ず取れる作物なので、作付は少なくても自家用分は確保できたのである。
アワの種類はほとんどがモチアワで、粒が黄色い品種と白い品種が作られていた。市内各地区ともこの二種が記憶にとどめられており、後には白い品種ばかりになったともいう。この品種は餅に搗くと見た目には米の餅に間違えるほどだったので、ムコダマシという名も付けられていた。
種蒔きは麦刈りが終り、六月中~下旬から七月初めにした。麦の後に蒔くのでサクの間隔は一尺八寸から二尺二寸程度で、サクグワ(サッキリグワ)でサクを切り、コスリマンガ(ツブテッコシ)でこすってから蒔く。肥料には豆粕・干鰯・過燐酸などを入れる。種子は前年のアワ穂をそのまま軒下などに吊して保存しておき、蒔く前に手でもんで粒にし、一升桝などに入れて持ち、手で捻ってザラマキにした。手で捻るというのは親指・人差指・中指で種子を摘み、指を捻るようにしてサクに平均的に落とすということである。ザラマキは条播のことで、種子はなるべく薄く蒔き、土も薄くかけるのがこつだった。
七月中旬から下旬には三、四寸の長さに伸びるので間引きを行う。アワゴセイといい、厚い(密集)ところを間引いて一本だちにしていく作業である。暑い盛りの仕事で、高尾では祇園の後だったのでお祭りあがりで眠く、おろぬきながら居眠りをすることもあったなどといわれている。雑草もたくさん出たのでアワゴセイには除草も行い、さらに盆前にもサク切りをして除草をした。また、伸び具合いにもよるが、アワゴセイの後には追肥として下肥をかけることもあった。
収穫は九月下旬から十月で、根元からこぎとって並べ、包丁か穂バサミで穂だけ切ってザルに取り、テゴなどに入れて家に運んだ。穂は家で筵干しにし、アワボウチといってクルリ棒ではたいて脱穀した。アワの粒は細かいので、さらに竪臼に入れて搗いて実を落とし、唐箕で選別した。
アワは自家用だったので、実は適当な袋かドウコなどに入れて保存し、食べる時に竪臼で搗いて精白する。精米所ができてからはメリケン袋に入れて精米所に持っていって精白してもらうようになったという。秋に収穫したアワの大半は、正月用の餅に搗いたのである。アワ餅は米と同じように水にひやかしてからセイロでふかし、臼で搗く。アワ餅といっても糯米を混ぜたが、これは米だけの餅より固くなるのが早いし、アワは消化が悪いので昔は便所にホオジロがアワを食べにきたものだったなどといわれている。正月のアワ餅は伸して細かく切り、油で揚げてカキ餅にしておき、農作業の合間の三時のお茶に食べた。

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