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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(四)サツマイモ
出 荷
一反当たりのイモの収量は約三六〇貫から四〇〇貫で、俵にすると三〇俵前後になった。戦争中に作った早生花魁の場合には一反で五〇〇貫取れたというので、収量の多さがよくわかる。
一俵の目方はイモの検査が行われるようになる前後で異なり、検査を行うようになってからは一二貫に統一されたという。これ以前は一四貫だった。サツマイモの検査は昭和九年九月に埼玉県条例によって行われるようになり(その後、昭和二十五年には農産物検査法が側定され、国で検査を行うようになった。)、各地区に検査所が置かれた。たとえば下石戸下の久保では現在の浄水所の所に検査所が置かれ、出荷前に持ち寄ると検査官がいくつかを抜打ちで調べた。中のイモを見たり、重さを計るなどし、検査が終ると問屋などに出した。俵はサツマ俵といって米の俵より少し大きく、冬の間に編んでおくが、多量に必要なため、芋問屋から空き俵を買うこともあったという。
芋問屋は鴻巣に茶碗屋、山田屋、下の山田屋の三軒があり、周辺のサツマイモや芋苗を大きく扱っていたようである。北本でも、戦後になって甘藷出荷組合が設立され、共同で市場出しをするまでは、鴻巣の三軒の問屋に各自が出していたという。
問屋への出荷は早ければ夕方三時か四時ごろとなった。俵に詰めたサツマイモを荷車(大八車)に六俵くらいのせて曳いていったのである。一台にのる量は少ないが、昭和初期には中山道といえども砂利道で、荷車を曳くのも容易ではなかった。子どもなどが荷車の後押しに付いて行くこともしばしばあったといわれている。ワラジ履きで出かけ、問屋へ納めた帰りには鴻巣のはずれの団子屋で団子を買い、食べながら帰ってきたなどともいう。昭和初期に牛を飼い始めると牛車が使えるようになり、運搬が楽になるとともに一回に運ぶ量も多くなった。また、昭和三年八月一日に北本駅が開設されてからは、サツマイモの収穫期になると問屋が駅周辺に事務所をつくり、ここで取り引きできるようになった。
問屋での取り引きは、イモの値がいい時には引つ張りだこで、他の問屋ではいくらなどというとイモのお金に、いくらかの酒手を付けてくれた。逆に値が安い時には運んだイモが問屋の預かりとなり、通帳に俵数だけ記入して値段は書かれなかったという。また、問屋の外交員が農家を回って買い集めることもあった。取り引きは一俵の値段で決めるが、基準となるのは一駄(だ)であった。イモは三俵が一駄(米は二俵が一駄、桑は三六貫目が一駄)で、普通は一駄ごとに売り買いした。いずれにしても出荷組合ができるまでは問屋中心の取り引きで、買いたたかれることもあったのである。

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