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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

1 水田と水利

耕地整理と河川改修
市域でもっとも早く耕地整理が行われたのは鯉沼耕地で、明治三十年代だったという。埼玉県内でも早い方で鴻巣町常光村連合耕地整理(『北本市史』第五巻 近代現代資料編 一六四頁による)として行われたが、古老たちが話す水田状況からは、暗渠排水までは行われなかったようである。そのため赤堀川沿岸の水田は、昭和二十九年二月に北本宿第一土地改良区が組織され、宮内耕地、花ノ木鯉沼耕地、常光村下谷、岡三島、常光鯉沼の六六町歩の土地改良が行われた。昭和二十九年十二月に暗渠排水が起工され、昭和三十三年三月に完了している。この工事によって初めてドブッ田が解消されたわけである。
北中丸の土地改良はその後で、昭和三十九年から始まり、宅地や畑も含めて整理を行い、矩形(くけい)の耕地にするとともに、道路をつけて作業がしやすいようになっている。
また、古い時代の耕地整理としては、明治四十一年に石戸村でも開始され、同四十三年に完了している(『北本市史』第五巻、一七八、一七九頁)。しかし、ここでも鯉沼耕地同様、明治期の土地改良は十分なものではなかった。石戸村の耕地整理については、明治四十五年一月に石戸尋常高等小学校が編さんした『石戸村郷土誌』に詳しく、整理前には乾燥地の水田が二町七反、湿地(湿田)が二四町六反二五歩、乾燥地の畑が三四町二反、湿地の畑が二二町二反五畝一八歩だったのが、整理後には乾燥地の田が一九町九反七畝二六歩、畑が五一町三反三畝二九歩、湿地の田が八町五反、畑が五町七反になった。水田面積が一町歩程増え、さらに耕地整理に併せて馬耕伝習を行い、水田では稲の収穫後にレンゲ作を奨励し、また水利組合も設立したとある。
荒川の河川改修は昭和初期に行われた。これ以前は図6に見るように蛇行した川で、たびたび氾濫(はんらん)していた。改修以前は現在の数倍の水量があり、しかも河床が高かったので二~三時間大雨が降り続くと水があふれ、堤外は水びたしになったという。また、荒川が増水することによって樋詰土手(桶川市)がきれると、江川に水が逆流し、下石戸下付近まであがってくることもあったといわれている。
現在は荒川沿岸に上沼・下沼・附歩に広い水田地帯があるが、ここは改修以前は図6のように畑や荒地だった。サクバ(作場)とか堤外、洪水面などと呼ばれ、毎年のように水をかぶるので土地は肥えているが、作物を作っても当てにならない土地だったといわれている。干魃にあうことがないので里芋には適していたが、大半は桑畑として利用したという。図6の明治期の地図から、すでに河道の脇などに桑畑があるのがわかる。
改修以前は現在のような堤防はなかったわけで、西岸が決壊すると吉見や東松山の方まで洪水にみまわれた。改修で河道をまっすぐにするとともに堤防を築き、作場だった所は官有地に買い上げられ原野となった。現在見ることができる水田は、戦後になって組合を組織して国から原野を借り受けて開いたものだという。

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