北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

1 水田と水利

陸 田
昭和六十年の農業センサスの結果では、北本市内の水田面積は表2のように二九七へクタール余となっている。明治八年の『武蔵国郡村誌』の記載に比べると約二倍ほどになっている。古くから水田があった谷津などには、休耕田や放棄されたかのような水田が目だつにもかかわらず、逆に水田面積が増えているのは陸田の造成のためである。
陸田というのは、前記のように畑に灌漑設備を設けて水を揚げ、畔を盛り上げて水が溜められるようにして造った田である。現在では市内の各地区にみられ、かつては水田のなかった北本宿(本宿)や東間でも水稲作が行われている。陸田の造成は地区や家によって遅速があるが、現在のようにどこにでも見られるようになったのは昭和三十年代の半ば以降である。
古くからの水田は少なく、しかも地主から借りている田なら小作米を納めなければならず、家で食べられるタゴメ(水田の米)はわずかしかなかった。飯米用の米はどうしてもオカボに頼らざるを得なかった。しかし、オカボは干魃に弱く、確実な収穫は望めなかったのである。こうした状況のなかで戦後になって陸田の造成が始まった。年代は定かではないが、常光別所の柳井常右衛門さん(明治三十六年生)によれば陸田造成は自主的に始まったことで、豆トラがはやり始めた時代に、中丸の人が深井戸を掘ってバチカルポンプで水を揚げ、豆トラでこねて水稲を作ったのが最初だった。この時は一反くらい造成しただけだが、その後五年くらいの間に各地に広まって多くなったという。
また、深井の清水吟一郎さん(明治四十三年生)によれば、自分の祖父は農業が好きで早い時代に二丈四尺の深さの井戸を二本掘り、石油発動機で水を揚げて二反ほど造成し、反当たり五俵くらいの米を取ったという。正確な年代はつかめないが、早い人は昭和二十年代に陸田を造成し始めたようで、三十年代の半ばから盛んになり、五十年代まで造成が続けられた。三十年代半ば以降に盛んになったのは、豆トラが普及したからで、牛に犂を曳かせて耕したころは陸田といっても水もちが悪く、広まらなかったともいわれている。

写真14 陸田と井戸ポンプ小屋(高尾)

写真15 ポンプ小屋の札

(「給水の時は名札を表にし停止の時は裏返して下さい。お互いのためですから必ず守って下さい」と記されている。共同のポンプである。)

陸田を造るには灌漑水を揚げる井戸がなくてはならない。井戸の深さは場所によって違い、浅い所なら一五尺から二〇尺くらいで水が出るが、深い所だと三〇尺、五〇尺掘っても出ないことがあるという。井戸掘りは専門の業者に頼み、現在では七〇~八〇メートル程の深さの井戸になっている。井戸からは電気モーターで汲み上げ田植えをした後は朝晩必ず見回って水の具合いを見る。この時期にはいっせいに水を汲むので水が少なくなるからである。

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