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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

1 水田と水利

水 利
水田の灌漑は赤堀川沿岸の一部を除くと、基本的には天水場で湧き水や雨水に頼って耕作をしていた。かつての水田は前述のように台地下や台地の間の谷にあっただけなので、湧き水などで間に合った所が多かったようである。むしろドブッ田では水を思うように操作できず、不要な時に排水できなかったのである。ドブッ田でも陽気が乾燥する二月から四月までは水が涸れることがあり、田うないなどに困ることもあったが、逆に稲刈りを行う秋口には多くあったりした。不要な時期に水があるわけで、こうした水を「あしたの清水で、引き手がない」という。
天水で作る場合は、山の麓や田の中から湧き出る水で作るのだが、この水はそのまま田に掛け流すだけではなく、田の脇や田の上にある畑の脇にタイドと呼ぶ池を造って溜めた。タイドは個人所有の池で、大きさは三~四坪、あるいは五~六坪といったもので、田に自然に溜った水だけでは足りない時にここから汲み出した。スイコという木製の手押しのポンプを使ったり、ウチオケという桶で田にかい出した。ウチオケは一斗入りくらいの大きさで、ロの二ヵ所に縄が付けられ、二人が向き合ってそれぞれの縄の端を持ち、振るようにして水を汲みあげるのである。

写真16 スイコ(把手を押引きして水を汲む)

スイコやウチオケを使った水の汲み出しは、女や子どもたちも手伝ったが、結構大変な作業で一日やっても三~五畝の田に水が入れられるだけだったという。こうしたことを行うのは水が少ない年なので、当然ながらタイドにも水が十分でなく、水を汲み出すとタイドが底をついてしまい、湧き出る水をしばらく待ってまた汲むということの繰り返しだった。スイコやウチオケて一回に汲める水の量は少ないので、田の中に小さなクロを作っていくつかに仕切り、一つに水が溜るとこの水を次の仕切りに落として使うということもした。
天水やタイドの水では足りない場合には、臨時に田に手掘りで井戸を掘ることもあった。下石戸下では七~八年に一回くらいの割であったという。井戸は人間の背丈から二メートルくらいの深さに掘った穴で、水を汲むには人が中に入って桶やバケツで汲みあげた。
このような年には雨でも降り出せば大喜びで、急いで蓑、笠を着て田に飛び出して仕事をした。雨もなくひどい時には、稲を作らず野菜や豆などを作ってしまうこともあったという。以上とは逆に雨が多くて水が溜りすぎ、仕事ができないこともあった。こんな時にはミズグルマを踏んで田の水を汲み出して田うないなどをしたという。一口に湿田というと水が年中湧き出て、足が深くもぐってしまう田というイメージをもつが、干魃や水が多すぎる時には想像外の苦労があったのである。

図7 田舟とスイコ

タイドや井戸からの汲み出しは大変だったので、後には田の中に深井戸を掘ってポンプで汲み上げるようにした所もある。早い所では昭和十五年ころに掘って水がない年には石油発動機で汲み揚げて使ったといい、昭和三十年代になって掘った所もある。深井戸の深さは場所によって異なるが、北中丸では一〇メ—トルくらいで砂利層、砂層に突き当り、水が出るという。これは井戸屋を頼んで掘る井戸である。
下石戸下や下石戸上の水田には江川が流れており、この水も灌漑に使われていた。江川は山から湧き出てくる水を集めて流れる川で、大雨でも降ると水がいっぱいになったという。川から引くといっても水利にかかる組織があったわけでなく、田うないの時期になると各自がめいめいに泥か板で堰をかき、田に引いた。そのため夜になると上流にある堰を壊し、自分の田に水を引くこともあったという。なお、江川も湧き水を集めた流れなので、水がない年にはここから引くことはできず、周辺の田では手掘りで井戸を掘り、水を汲み上げていた。
下石戸下には比較的大きな溜池もあった。ウワダメ (上溜)とシタダメ (下溜)の二つがあり、上溜は三畝、下溜は五畝くらいの大きさだったという。これらの溜池も上の山から絞れ出てくる水が水源で、田を作る時期には水を流した。正確な年代は不明だが、池の上の方が宅地などに開けて山林がなくなり、使われなくなったという。
二つの溜池については『武蔵国郡村誌』にも記載され、一つは「竪二十七間、横二十二間、周回一三三間、村の中央にあり用悪水に供す」とあり、もう一つは「竪二十三間、横八間、周回六十間、村の中央にあり」とある。現地調査では下石戸下以外で溜池を聞いてないが、『武蔵国郡村誌』には、下石戸上に一つ、荒井に一つ(精進場溜池)、本宿に二つの「溜井」が記され、下石戸上・本宿でも用水として使うとある。
北本市内で古くから用水場だったのは、赤堀川沿岸の一部の水田だけである。深井・宮内・古市場の台地下には鴻巣市宮地で元荒川から取水された新谷田用水が通り、さらに常光別所(朝日)で中加用水を分岐して桶川市へと流下している。用水路にかかる村々は広範囲に及んでいるが、現在の用水路は大正時代前半に行った耕地整理の際に掘りなおしたものといわれている。
新谷田用水以前は、その名称からもうかがえるように谷田用水といい、取水場所は変わりないが、灌漑域はもっと狭かったようである。常光別所の鯉沼耕地は大正六~七年に耕地整理をするまでは天水場で、その後、新谷田用水から中加用水を引いて用水場になったといわれている。
谷田用水の開鑿(かいさく)年代はわからないが、嘉永六年(一八五三)八月の用水路浚せつの願書き(『北本市史』第四巻近世資料編所収)が残されている。この資料は、谷田用水にかかる村は深井村・上宮内村・下宮内村など一六ヵ村と一宿で、毎年夏には三回の藻(も)刈りを行ってきたが、近年用水路の河床があがって末端まで用水が届かないので、浚せつを行いたいという願書きである。すでに江戸時代末には用水路に生えた藻草を刈り取る藻刈りが定期的に行われたのがわかる。
また、明治三十一年十一月の宮地堰にかかる費用精算・割賦についての資料には、鴻巣町・中丸村・常光村・笠原村・屈巣村・下忍村・持田村・埼玉村が名を連ね、関係反別は五〇町二反一五歩とある。さらに、明治三十四年十月の宮地堰改良工事規約書によれば、従来から毎年一回は水路の浚せつや藻刈りを行い、灌漑反別に応じた引水の日割り・時間割りが行われていたのがわかる(両資料とも『北本市史』第五巻近代現代資料編所収)。

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