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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

3 稲作の過程

(一)摘み田
牛馬耕
馬は表7のように明治初期にも少なく、現在の古老たちが若いころにも少なかった。北中丸の加藤米吉さん(明治三十二年生)によれば、昔は二、三軒で一頭とか、一軒で片足ずつ(四軒で一頭ということ)とか乗合馬だった。あるいは同じく北中丸の加藤良作さん(明治四十年生)は、一〇〇戸のうち馬を飼ったのは一割程度だったといい、決して多くはなかった。


表7 明治初期の村別馬頭数 (明治8年『武蔵郡村誌』による)
 牡馬
(頭)
戸数
(戸)
頭数/
(%)戸数
石戸宿2714518.5
下石戸上208025.0
下石戸下227927.8
荒  井211119.0
高  尾3218517.3
古市場72626.9
別  所63318.2
花ノ 木0120.0
中  丸3012723.6
山  中71353.8
本  宿174438.6
宮  内206033.3
朿  間95516.4
深  井95915.2
合  計2271,029323.6

図9 大鍬と万鍬

しかし、馬を飼う家ではハナドリが先に一人付いてシロカキマンガを曳かせて田の代搔きをしたり、車を曳かせたりし、厩舎の敷藁はダゴイに積んで堆肥を作っていた。馬を飼わない家では親戚から借りて代搔きをするようなことも行われていた。石戸宿では湿田でも、それほど深くない田では畑用の犁を使って田を耕したという人もある。
このように馬は少ないながらも農耕に使われたが、昭和になると次第に牛が使われ始め、馬の姿はほとんど見られなくなった。牛は大半が朝鮮牛で、昭和十年前後から導入されだした。家畜商から子牛を買い、三年くらい育ててから農耕や運搬に使い始める人もあった。牛も深い湿田では使えないが、所々には使える耕地もあった。たとえば北中丸では西の田と呼ばれる耕地は深くて使えなかったが、東の田は浅くて使え、日(ひ)の本(もと)号などの犁を牛に曳かせ、ハナドリが一人付いて耕したという。牛耕が一般的になるのは戦後のことで、動力耕うん機が広まるまで使われていた。

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