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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

3 稲作の過程

(一)摘み田
水の管理と防虫
田摘みが終ってからの田の仕事には、水の掛け引き、害虫駆除、田の草(除草)、追肥などがある。五月初めから収穫までに行わなければならないことで、いずれも畑の仕事や養蚕などと並行して行った。
田摘みをした後の水の掛け引きは、市域全体としては天水場が多かったので思うようにはいかなかったし、大半が湿田だったので水は多くなりすぎていた。しかし、だからといって何もしなかったわけではない。水の掛け引きはこうすべきだという形があり、できるだけこれに近づけるように努力がされていたのである。
田摘みの時の水の状態は、できるだけ少ない方がよい。種籾と肥料を混ぜたものを蒔いたとき、水が多いと田の中で散ってしまうからで、こうなると後で稲苗を揃えて株を作るのが大変になる。田摘みをする前には田の水口を開けて水を下の田に流し、少しでも減らしたのである。そして、田摘みが終ってからは水をうっすらと掛け、一週間ほどして種籾が芽切れてきたら再び水を減らす。すると根が土の中にふんごむ(伸びる)という。この時に水が多いと芽を出し始めた種籾が浮いてしまう恐れがある。これをメボシ(芽干し)といい、稲の根が伸びたら今度は水を掛けてやり、芽だちした種籾がスズメにくわれないようにする。ただし、この場合も苗が水の中に沈んでいる状態ではだめで、苗の頭が水面上に少し出るようにする。こうした状態を保ちながら成長を見守り、八月上旬には干し田といって田の水を抜いて田を干し、下旬になって花が咲く前に改めて水を入れる。
水の掛け引きはこのようにいわれているが、塩梅(あんばい)はむずかしく、実際には思うようにはならないことが多かった。干し田といっても水を抜ききれないし、花が咲くときに改めて水を掛ける必要もなかったという。
水の具合いには細心の注意が払われたのだが、一方では苗が二寸くらいに伸びたころには田でドジョウを取ったりした。夜、石油のアカシ(灯火)を持って出て、突いて採った。採ったドジョウは一日きれいな水に入れて泥を吐かせ、煮付けにして食べることが多かったという。なお、これに先だって四月ころには田にタニシもたくさんいたので、拾い採って実を出し、味噌で煮て食べた。
稲の害虫にはナゴ(イナゴ)がいて多少葉を喰うくらいで、あまり気を使わなかったという人もいるが、ズイムシにひどくやられ収量が減ったという人もある。戦前にはこうした害虫を駆除する薬剤がなかったので、北中丸や常光別所などでは七月の祇園(ぎおん)のころになると、何か所かに誘蛾灯を設けたという。電気の誘蛾灯ではなく、石油缶をくり抜いて中で火を焚いて蛾(が)を集め、下に水を入れた缶を置いて捕らえ殺したという。農家各戸がめいめいにしたのではなく、地区で共同して設置し、順番を決めて夕方になると火を付けた。害虫駆除やイモチ病予防の農薬を使うようになったのは昭和三十五年ころからだった。

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