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第3章 農業と川漁

第2節 水田と稲作

3 稲作の過程

(一)摘み田
脱穀・調整
稲扱(こ)きはたいてい家で行ったが、かつては稲を家に運ぶのが一苦労だった。耕地整理をしてからは、それぞれの水田の横に道が造られて荷車でも牛車でも入ったが、これ以前は他家の田のクロを通らなければ道に出られない田が多く、稲束を荷縄で背負ったり、サシボウに突き刺して運んだ。北中丸ではイチョゴッチョイ(越後背負い)といって五、六把ずつ縄で背に担ぎ、場所によっては一〇〇メートルも歩いて道に出すようだったという。
稲扱きは現在の古老の世代にコキと呼ぶ千歯(せんば)から足踏み脱穀機になり、さらに石油発動機を使った脱穀機に変わった。千歯は大麦の脱穀では昭和十年ころまで使った人があるというが、稲はこれより早く足踏み脱穀機に変わったようである。下石戸下の明治四十四年生まれの人は、稲をコキで扱いたのは親の世代までで、自分は使わなかったといい、高尾の明治三十四年生まれの人は二〇歳くらいの時までコキを使ったという。
千歯はたいていの家に数挺ずつあり、刈り取って乾いた稲から家に運んでおこなった。十月に早稲から刈り始め、順次稲扱きも行うわけだが、千歯での脱穀は二人で一日行っても五畝(せ)分程度だったという。莚(むしろ)を敷いてコキを並べ、ひと握りずつ稲を持って稲を引き扱く。この時にはコキハズシといい、女や子どもが千歯の間に詰まった穂や籾を手で取り外しながら行い、手があれば(働き手が余分にいれば)扱き終った稲藁を束ねる役も付いた。脱穀を行う場所は、家の庭が普通だった。ただ、現在ではとても考えられないが、荒井では家の中の畳をあげてそこで稲扱きをしたという人もある。
千歯で脱穀した当時は、扱いた稲をフルイ(麦ブルイなど目が粗いのを使う)にかけ、ツタッカといって穂のまま切れ落ちた稲をクルリ棒で叩いて籾にした。叩くと再びフルイにかけてゴミをとる。
足踏み脱穀機は、その回転音からガーコンとも呼ばれた。先の古老の話などからいえば、早い家では大正時代の後半から使われ始めたようで、昭和初期には大半が足踏み脱穀機になっていたと考えられる。これが広まる前には一時期、手回しの脱穀機(輪転機)も出回ったが、これは骨が折れるので買い手は少なかったという。動力脱穀機はその後、昭和十年代になってからで、初めは各家で持つことなどできず、一つの地区で数人の人が持っていて一反分いくらで頼まれて脱穀していた。リヤカーに道具を積んでおき、頼んだ人がとりにいって使ったという。
足踏み脱穀機や動力脱穀機になってからは、ツタッカはほとんど出なくなり、クルリ棒で打つことはなくなった。扱いた稲はフルイにかけて大きなゴミを取り除き、さらに唐箕(とうみ)で選別してから籾干しをした。庭一杯に莚を広げ、ハンデに掛けた稲なら一日程度、あまり干さずに脱穀した稲なら天気の良い日に三日間ほど干した。大きな農家なら一〇〇枚も一五〇枚も莚を用意しておき、霜が降りた日には下に藁を敷いてから莚を広げていた。
こうして干した籾をカラウス(唐臼)で籾すりしていく。干し上がった籾を唐臼に掛けるので、籾すりはたいていヨナベ仕事になった。納屋などにランプを灯し、夜の十時ころまでしたといわれている。唐臼は大正時代末・昭和初期までドズルスといって、四斗樽を二つに切って土を詰めたもの、あるいは竹で籠のように円く編んで土を詰めたものを使った。ウワダイとシタダイとがあり、竹籠製のものはシタダイが一回り大きく作られ、これから芯を立ててウワダイを載せ、ウワダイを回転させて使う唐臼である。ウワダイとシタダイの擦(す)り合わせ面にはともにカシの木で作った歯が埋め込んである。何年か使っていると歯がすり減り、唐臼屋を頼んで作り換えてもらうわけで、唐臼屋は中に詰めるへナ土とカシの木の歯を持ってきた。唐臼屋は鴻巣や石戸宿の横田・平方などにあり、深井辺りでは平方の唐臼屋を頼むことが多かったという。

写真21 ドズルス

(シタダイの下に一回り大きい受けが付いた改良型)

写真22 万力

(上から米を流すと悪い米はフルイの目の下へ落ちる)


籾すりは家の中の土間や納屋で行い、天井の棚木に唐臼の竹の柄を取り付け、下には莚を敷いて据えた。二、三人で柄を持ち、稲籾を入れながらウワダイを回す。するとウワダイとシタダイの擦り合わせ面から米が出てくる仕掛になっている。一回の籾すりで米になるのは五~六割程度で、唐臼にかけたものを唐箕であおり、さらにトオシ(万石トオシ)に通して米と籾を分け、籾は再び唐臼にかけた。都合三回くらい唐臼にかけないと米になりきれなかったのである。人数にもよるが一晩で四~六俵くらいの籾すりができたという。
ここで使う唐箕は、今は農協などを通じて買うが、昔は唐箕屋というのがあって背負って売りにきたという。万石トオシも専門に作る人があり、北本市内では次表でわかるように旧鴻巣町や北足立郡中丸村、川越喜多町などで造られたものが使われていた。(表8参照)
表8 万石の墨書一覧(北本市教育委員会所蔵資料)
 墨         書
 1大極上々無類万石篩
北足立郡中丸村大鳥請合
 2大極上無類□改良万石篩本家請合
北足立郡中丸村篩屋喜代松製
 3大極上無類御□凱旋簾本家請合
北足立郡中丸村篩屋喜代松製造
 4昭和二十三年四月新調 北足立郡鴻巣町元市町大島作 北本宿宮倉政一
代金壱阡弐百円 大極上々無類請合万石篩
 5大極上々請合改良大麦万石篩 本野口用 野口 功
北足立郡鴻巣町 須永貞次郎作
 6大極上々無類飛切請合萬石篩 (?)
武州鴻巣町 須永治三郎製
 7大極上無類飛切□万石篩
北足立郡鴻巣町茶腕屋請合
 8北足立郡鴻巣町 清水伊三郎作
大極上々無類飛切□万石篩
 9(吉)大極上万石簾本家請合
川越喜多町吉田屋源六作
 10(吉)大極上無類飛切万石簾
川越喜多町吉田屋源七造
 11(中)大極上無類飛切万石篩
東京大門通細屋紳兵衛造
 12改良四段三徳万石 堀口淸二
邑楽郡下中森江森式
 13金田式 三徳万石 三徳万石用 極意改良米早分之名器 成功
三徳万石 宮倉政一 34才 最高名誉賞牌 優良農林省御指定品農具
 14若竹式撰別機 特製
若竹式撰別機

(()内は焼印)


籾すりの終った米は、唐箕で完全にヌカ(籾殻)と米とを分け、米は万石トオシで良いものと成長が十分でないものとを選別し、良い米は俵詰めした。米の一俵は四斗で、一斗枡で計って入れた。現在の古老の世代ではすでに米や俵の検査が行われており、自家用以外の米は検査済みの俵に詰め、米の検査を受けた。古くは検査員が各家を回って検査を行ったが、北本周辺では良くっても赤丙というランクだったという。
検査が済んだ米は、田を小作している家では年貢(小作米)を地主に納め、余分があると穀屋に売った。戦時中に米の供出制度ができるまでは自由取り引きだったので、古くは馬の背に米俵を載せたり、荷車で穀屋に出したのである。穀屋は肥料も扱っていたので、米で肥料代の精算をすることもあった。桶川や鴻巣の穀屋に売るには、桶川は五、十の日、鴻巣は四・九の日に市が立ったので、この日に持って行ったりもした。

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