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第3章 農業と川漁

第3節 肥料と客土

1 肥料

堆  肥
堆肥はダゴイと呼ばれ、おもに麦作の肥料とした。麦を蒔くサクに入れたり、麦の種子と混ぜて蒔くわけで、これまでに必要な量を作った。牛をどこの家でも飼うようになってからは、牛小屋に入れた踏み藁を積んで作るようになり、一年中堆肥作りができ、しかも多くの堆肥が得られるようになった。しかし、これ以前は山から搔き集めた落葉を主体として堆肥を作ったので、稲刈りや麦蒔きが終ると次の年の堆肥作りの準備にとりかかった。
堆肥作りの準備というのは、ヤマカキ(山搔き)とかヤマカリ(山刈り)、クズカキといい、山から落葉を搔き集めることである。山搔きを盛んにしていた時代は、麦蒔きや稲刈り、稲扱き、籾すり、俵詰めを済ませて山搔きとなったので、始めるのが十二月末近くなり、一月いっぱいはこの仕事を行い、正月は月遅れの二月にしていた。暦に従って正月を行うのでなく、仕事に合わせて正月を迎えたのである。

写真26 ヤマカリガゴ

(直径62cm、高さ43cm)

山搔きは自分の山、山を持たない家では山持ちから一反いくらでヤマセン(山銭)を払って借り受けておこなった。北中丸や常光別所などのように山の少ない所では、現在のJR高崎線沿線などの山を借りて搔いたという。男も女も総出で、ワラジガケで山に行き、まず篠竹などをヤマカリカマ(山刈鎌)で刈り取る下刈りをし、その後でクズを搔いた。下草を刈るのを男が行い、終ったところから順次、女がクズを搔くという分担をすることもあったという。
山搔きにはヤマカリカゴとかコノハカゴと呼ぶ直径が三尺ほどもある大きな六ッ目の籠を荷車に積んだり、背負っていった。クズを搔くのはクマデで、山の上の方から順番に搔き集めてヤマカリカゴに詰め込んだ。籠には手でクズを抱え込んで入れ、一杯になると足で踏み込み、さらにクズを入れて踏みできるだけたくさん入れて家に運び、キゴヤ(木小屋)の隅に積み上げておいた。山搔きの時には落ちている枯れ枝も拾ってきた。山持ちから山を借りて山搔きをする場合も、落ちている枯れ枝を拾うのは許されていた。
クズは枯れ枝とともに燃料としても使われ、また、牛の踏み草として牛小屋に入れることもあった。堆肥を作る分のクズは木小屋に置いたまま、あるいは外の庭に積んだままにし、これに台所から出るゴミやヌカ、さらに春になって蚕の糞、大麦カラなどを一緒に積み込み、数回切り返しをして発酵させて作った。切り返しは麦刈りころに一回行い、その後、九月までに三回ほど行うといい堆肥ができるという。かつてはどの家でもたくさんの堆肥を作り、人の背丈程の高さに幅一間、長さ八~九間も積み上げたものだったともいわれている。
堆肥はこのようにいろいろなものを混ぜ込みながら積み上げて作る場合と、搔き集めてきたクズをまずサツマ床に使ってから作る場合とがあった。クズは苗床に使うと発酵して床土となり、これを大麦カラなどと一緒に庭に積み、切り返して細かくした。できあがった堆肥は木小屋の中に積みなおしてとっておき、これを麦蒔きに畑に運んだ。
山を持たない家では、大麦カラや稲藁などを積んで同じように作ったり、麦蒔きに使う時には、堆肥に豆粕などの金肥を加えてマンノウで切り返すこともあった。家から畑への運搬には、テゴとかテゴッタワラと呼ぶ稲藁で作った容器を使い、天秤棒で担いだり荷車に積んで運んだ。テゴッタワラは、現在の古老の世代では作れる人が少ない。これは自分たちの代になるとカマス入りの肥料を多く買うようになったからだという。肥料はカマスに入れられて売られ、家には何枚ものカマスがあった。そのため堆肥の運搬にも自然とこれを使うようになり、テゴッタワラはあまり必要なくなったのである

写真27 堆肥の山(下石戸下)

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