北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第3節 肥料と客土

2 ドロツケ

北本市西部の高尾・荒井・石戸宿・下石戸上、下石戸下の各地区では、冬の農閑期を利用して荒川の河川敷からヤド口という泥を運び、畑に入れていた。一種の客土でドロツケと呼ばれ、これによって畑は肥(こ)えて麦などの収量が多くなったといわれている。現在の古老の世代では、実際にヤド口を取ってドロツケをした経験者はほとんどなく、自分たちの親や祖父の時代までだったという。おおよそ明治末・大正時代半ばころまでのことだったと考えられる。
市内では荒川沿岸の西部地区だけで行われたのが特色で、ド口ツケをした畑はJR高崎線の西側までだったようである。北中丸ではしたことがないといい、ニツ家でも荒川の近くではしていたが、この付近までは泥を運びきれず、行わなかったといわれている。
ド口ツケを行うのは毎年十一月の麦蒔き後から翌年の三月ころまでの間で、荒川の下沼などのシタノヤ(洪水面)からヤドロを畑に運んだ。ヤドロというのは、毎年のように起こった洪水で運ばれてきた泥であり、肥料分を多く含んでいるという。盛んにドロツケをした時期は二月で、朝暗いうちにシタノヤに行ってエンピなどでヤド口を掘り、板で作った四角の箕に搔き込んで馬の背のスカリに詰めた。スカリは荷鞍に付けたもので、下端部を紐で縛って中身が出ないようにしてある。泥を降ろすには、この紐を解けばよい。
こうして馬の背で運ぶことをツケウマ(附け馬)といい、畑に運ぶと隅の一カ所にまとめて下ろした。シタノヤから取ってすぐに畑に入れるのではなく、ヤド口は一時畑に積んだりあるいは家の屋敷の片隅に積んで、一年から二、三年おいてから畑にまくのである。取ってすぐに畑に入れないのは、泥の中には雑草の種子が混じっていたり、取ったばかりの土はにえないといい、中の肥料分の効果が出てこないからだという。
畑にヤド口を撒く時には、まず畑の中に運んでボッチ山(山)を随所に造ってから周りに撒いたり、麦蒔きの後にサクの間に撒いたりした。ドロツケを行ったのは、ヤド口に肥料分があるというだけでなく、畑の土質自体が軽いのでこれを改善することも目的だったという。そのためか新たに開墾した畑では、馬方に一台いくらと決めてド口ツケを頼むこともあったといわれている。
以上のようなドロツケは、すでに実際に体験した人がほとんどなくなり、次第に忘れられようとしているが、埼玉県内では桶川市から鴻巣市にかけての荒川沿岸地域で盛んだったのがわかっている。畑に撒かれたヤド口の層は、北本市の高尾では四〇~五〇センチメートル、石戸宿では一メートルにも達する所があるとされ(吉川国男「大宮台地のドロツケ=客土農法」『埼玉民俗』第五号所収)、なみなみならぬ努力が払われてきたのがわかる。ドロツケは何を端緒として、いつごろから始められたのかは明かでないが、綾瀬川沿岸の岩槻市馬込でも川の底に溜ったドロモクを取って畑に入れ、ドロッコエ(泥肥)にしており、荒川沿岸だけでなく他の河川沿岸でも広く行われていた可能性がある。

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