北本市史 民俗編 民俗編一覧
第3章 農業と川漁
第4節 養蚕と桑苗生産
1 養蚕業の歩み
最盛期から衰退期へ統計的に北本市域の養蚕の実態がつかめるのは昭和元年からである。この時期は北本市の養蚕の最盛期であり、生産者の談話で知りうることも、この時期のことが主流である。
最盛期であった大正から昭和初期にかけての様子は、石戸宿では宿並み三六軒と呼ばれた表通りの家、商売をしている家、合わせて七十軒余りの全戸が養蚕をおこなっていたといわれ、農綬家収入の八~九割が養蚕収入であったという。北中丸でも九割かたの農家が養蚕をしたという。
また、この時期、陸稲など畑作物に比べ桑園そのものは、当り外れがそれほど有るものではないので、畑作地はほとんど桑園になっていた。荒井では荒川の洪水面にも耕地をもち、桑園は洪水面の七割程を占めていたという。
昭和初期の繭の相場は、生産の当り外れのある夏秋蚕を別にし、春蚕のみで統計数値から換算すると、元年から四年までが、一貫目当り六円から七円と好調な時期であった。生産者の談ではその時々により一貫目当り八円~十円近いこともあったと記憶されている。こうした好調な相場そしてその後一転して暴落する相場は、生糸の輸出と経済の動向によることはいうまでもない。
表9 繭1貫目当りの価額とその変動
年度 | 春蚕 | 夏秋蚕 | 変動に関する事項 |
---|---|---|---|
円 | 円 | ||
昭和1年 | 7.5 | 5.2 | |
2年 | 6.3 | 3.7 | |
3年 | 5.9 | 4.8 | |
4年 | 7.2 | 4.7 | 7月 浜口内閣、金解禁発表 10月 ウオル街株式取引所連日大暴落 |
5年 | 3.5 | 1.4 | 3月 糸価安定融資補償法発動 |
6年 | 2.7 | 2.6 | |
7年 | 2.2 | 3.8 | |
8年 | 5.8 | 3.4 | 6月 米国金輪出禁止に刺激され糸価暴騰 10月 暴落 |
9年 | 2.1 | 2.1 | 春 製糸業者の大最持越繭の保有に加え、前年秋の損失回復の意図で春繭の買叩きがおきる |
10年 | 3.8 | 4.8 | |
11年 | 4.8 | 4.3 | |
12年 | 5.5 | 3.9 | 7月 盧溝橋事件の勃発、綿花羊毛は軍需物資のため、輪出用生糸が国内向けとなり糸価高騰 |
13年 | 4.1 | 4.7 |
数値は埼玉県統計書より石戸村・中丸村を集計し作成
相場が暴落したときの養蚕農家の立場は弱いものであった。生繭の取引であるから、相場をにらむような形で日数が経過すると発蛾してしまい、糸の繰れない繭となり商品価値は無くなってしまう。そうした、時問的制約から買い手相場となっていた。そのため、繭価に一喜一憂したのだが、養蚕収入への比重を高くした農家では、打撃を大きく受けた。大正期の糸価暴落の記憶を語る人はいないが、昭和になって初めての暴落の経験として生産者の脳裏に焼き付いているのが、昭和四年の出来ごとであった。それを北中丸の生産者は「どんな汗かいても、浜口内閣といえば汗が引っ込む」と、当時はいったものだと語っている。昭和四年浜口内閣の金解禁発表により一時的に増大した生糸の対米輸出による好況で、製糸会社が秋繭の高値仕入に進んだ直後、ニューヨーク株式市場の大暴落のあおりを受け、蚕糸恐慌にみまわれ、繭価は大暴落したのである。先に引いた北中丸の生産者の記憶でも、四年の春蚕が一貫当り八円だったものが四円に暴落し、それからは養蚕に限らず村の経済はガタガタになってしまったという。表9の統計で見ると、北本市域の生産者の繭価も昭和四年には七円二三銭まで進んだものが、翌五年には三円台となり、同年「糸価安定融資補償法」が発動されても秋蚕は一円四二銭まで落ち込んでしまっている。その後も経済情勢、政治情勢に左右されながらも低い繭価が続き、実際の生産者が出荷の際に付けられた繭価は二円五〇銭~二円八〇銭であることが多く、また幾年も続いたと記憶されている。
こうした、繭価が低かった時代であっても、農村にとって養蚕が現金を得る貴重な収入源であったことを伝えるエピソードを、高尾の農家が次のように語っている。「当時小学校の修学旅行は、親たちがその費用の四円がだせぬため希望する者が少なかった。そこで困った先生が、蚕の種紙を生徒に分けて飼わせ、旅行の費用を賄った」というのである。このころ、繭一貫目で二円八〇銭であったという。
表10 1軒当りの平均収繭高
年度 | 春 蚕 | 夏秋蚕 |
---|---|---|
貫 | 貫 | |
昭和1年 | 31.7 | 22.3 |
2年 | 32.3 | 24.3 |
3年 | 40.9 | 23.7 |
4年 | 22.1 | 29.5 |
5年 | 41.0 | 35.6 |
6年 | 45.7 | 36.4 |
7年 | 36.9 | 32.3 |
8年 | 35.4 | 36.7 |
9年 | 32.6 | 30.2 |
10年 | 34.5 | 25.9 |
11年 | 35.6 | 29.2 |
12年 | 32.0 | 25.2 |
13年 | 25.0 | 20.2 |
埼玉県統計書石戸村・中丸村の収繭高・養蚕戸数より算出
また、繭価の好・不況の波のある時代、養蚕の経営規模を示すものに「百貫飼(ひゃっかんが)い」という言葉があった。これは年三回の養蚕で百貫以上の収繭する規模を指し、養蚕農家と呼ぶにふさわしい規模の農家であった。百貫飼いをする家では時期になるとカイコビョウ(蚕日雇)と呼ばれる若い衆、女衆を雇っていた。こうした規模の農家は村の中でそれ程多くなかったようで、一軒当りの平均収繭量を表10の統計で見ると、春蚕で三〇~四〇貫、夏秋蚕で二五~三五貫というところであった。しかし、中には飛び抜けて多く飼う農家もあり、盛時には石戸宿に春だけで一〇〇貫、年間二五〇貫ほど収繭する農家もあった。
養蚕農家の戸数は昭和十三年ころまで七〇〇軒前後を保っていたが、漸減するのは第二次大戦に入ってからであった。それは、食量増産のための桑園から食用農作物生産への転換が要因であった。はやい所では昭和十二、三年から桑を抜き始めており、終戦ころにはかなりの桑園から桑が抜き取られ、残った桑園も間作の食用農作物の方が主体といった状態であった。また、徴兵により働き手の不足で養蚕をやめた家も少なくなかった。
そして戦後、政府が蚕糸業の長期安定をはかる施策として桑園の整理奨励事業を計画し、昭和三十三・三十四年の二カ年に桑園面積の縮少を実施するための補助金を出しており、北中丸ではそれを機会に養蚕をやめた農家も多かったという。その後、表11のように養蚕戸数も桑園も減り続け、昭和初期には石戸村、中丸村いずれも三〇〇戸台の農家が養蚕に携わっていたが、近年は表12に見るように、旧中丸村である東部地区の減少が激しい。昭和六十年の農業センサスによれば、東部地区にはすでに養蚕農家はなく、旧石戸村である西部地区に三二戸残るのみとなっている。
表11 養蚕戸数と収繭等の変化
年度 | 戸数 | 桑畑 | 掃立数量 | 収繭高 | 価格 | ||||||||
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総数 | 春蚕 | 夏蚕 | 秋蚕 | 総数 | 春蚕 | 夏蚕 | 秋蚕 | 総数 | 春蚕 | 夏秋蚕 | |||
昭和一年 | 七四八 | 八、二八五枚 | 二、七三〇枚 | 五、五五五枚 | 三八、九八七貫 | 二三、七四六貫 | 二〇、二四一貫 | 二八一、八七七円 | 一七七、二八〇円 | 一〇四、五九四円 | |||
二 | 六九七 | 一〇、五九四 | 四、七五四 | 五、八四〇 | 四七、一一〇 | 二五、九七九 | 二一、一三一 | 二四一、一一一 | 一六三、三八五 | 七七、七三五 | |||
三 | 七〇三 | 一一、五六三 | 五、三五三 | 六、二一〇 | 四八、八九二 | 二八、七五〇 | 二〇、一四二 | 二六八、〇三八 | 一七〇、六二〇 | 九七、四一八 | |||
四 | 四九八 | 四一三・八三町 | 一一、二六〇 | 四、三七〇 | 六、八九〇 | 四一、九三〇 | 一五、四三二 | 二六、四九八 | 二三五、八三六 | 一一一、五五九 | 一二四、二八〇 | ||
五 | 七三六 | 一一、二八八 | 五、〇三二 | 六、二五六 | 五七、九五八 | 三〇、一五八 | 二七、八〇〇 | 一四五、四八二 | 一〇五、八八七 | 三九、五九五 | |||
六 | 七〇六 | 一三二、六二九g | 五九、二一三g | 六七、四一六g | 六〇、五一八 | 三二、二六七 | 二七、二五一 | 一五六、一一八 | 八六、四一〇 | 六九、七〇八 | |||
七 | 六九三 | 一一七、七八二 | 四九、七七六 | 六八、〇〇六 | 四八、七六五 | 二五、五四九 | 二三、二一六 | 一四三、六九五 | 五五、七三五 | 八七、九六〇 | |||
八 | 七三三 | 一〇二、〇〇七 | 四九、六四九 | 五二、三五八 | 五四、一九一 | 二五、九八〇 | 二八、二一一 | 二四四、三五〇 | 一四九、四一七 | 九四、九三三 | |||
九 | 七二六 | 八八、八一四 | 四四、三七二 | 四四、四四二 | 四五、六三五 | 二三、六三〇 | 二二、〇〇五 | 九五、四〇七 | 四九、八三二 | 四五、五七五 | |||
一〇 | 七二五 | 七六、九五三 | 四〇、四三一 | 三八、五二二 | 四四、一五一 | 二五、〇二四 | 一九、一二七 | 一八五、六四五 | 九四、六一七 | 九一、〇二八 | |||
一一 | 七二三 | 七七、一七一 | 三七、〇四九 | 四〇、一二二 | 四五、七一九 | 二四、二七五 | 二一、四四四 | 二〇七、六八一 | 一一六、一一〇 | 九一、五七一 | |||
一二 | 七一九 | 七二、五二六 | 三八、四〇八 | 三四、一一八 | 四一、〇六二 | 二三、〇〇五 | 一八、〇五七 | 一九六、三七五 | 一二六、三五三 | 七〇、〇二二 | |||
一三 | 六八七 | 五五、八〇八 | 二七、〇二二 | 二八、七八六 | 三〇、七三四 | 一七、〇〇八 | 一三、七二六 | 一三三、一九八 | 六八、八二二 | 六四、三七六 | |||
一八 | 五五一 | 六五、六九〇 | 二九、六八〇 | 三六、〇一〇 | 三〇、七八四 | 一七、六〇二 | 一三、一八二 | ||||||
一九 | 四六四 | 五三、一二五 | 二四、二六一 | 二八、八六四 | 二二、一七八 | 一三、八二一 | 八、三五七 | ||||||
二〇 | 四六四 | 三三、三一四 | 一八、四一四 | 一四、九〇〇 | 一三、一四二 | 九、二一二 | 三、九三〇 | ||||||
二五 | 三三六 | 一五六・六 | 一六、四四〇 | 六、〇〇〇 | 一〇、四四〇 | 一四、四七〇 | 五、七〇〇 | 八、七七〇 | |||||
三一 | 四三七 | 一二〇・五 | 三、一六五箱 | 一、一三九箱 | 九六八箱 | 一、〇五八箱 | 二二、九一一 | 八、四四二 | 七、三六六 | 七、一〇三 | |||
三五 | 三七六 | 九三・〇 | 二〇六四・五 | 七一二 | 五一三・五 | 八三九 | 六四、六六八kg | 二四、六八七kg | 一五、三九三kg | 二四、五八八kg | |||
四〇 | 二五九 | 六六・八四 | 一、六〇二・七五 | 五三八・七五 | 三九一・二五 | 六七二・七五 | 四七、七四七 | 二〇、五〇二 | 一〇、六五三 | 一六、五九二 | |||
四五 | 一七四 | 四〇・九一 | 一、二三〇 | 五〇六 | 一八〇・五 | 五四三・五 | 三六、一一一 | 一八、四二〇 | 四、九六〇 | 一三、一三一 | |||
五〇 | 八八 | 四四 | 六四二・五 | 二五八・五 | 一〇〇・五 | 二八三・五 | 二三、二八三 | 一一、二三二 | 三、二四七 | 八、八〇四 | |||
五三 | 六四 | 三二 | 三八九・七五 | 一四三・七五 | 六二・〇 | 一八四 | 一七、五五一 | 七、九〇一 | 二、〇七三 | 七、五七七 |
年 度 | 飼養農家数 | 飼養箱数 |
---|---|---|
昭和40年 | 280 | 1,569 |
50年 | 東地区 18 102 西地区 84 | 東地区 98 644 西地区 546 |
55年 | 東地区 1 54 西地区 53 | 東地区 3 326 西地区 323 |
60年 | 東地区 0 32 西地区 32 | 東地区 0 155 西地区 155 |
東地区-旧中丸村 西地区-旧石戸村 『農業センサス』より作成。