北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

2 養蚕の技術

条 桑 育
条桑育に変わっていったのは、石戸宿では大正十三年ころであったという。養蚕規模が拡大するにつれて 給桑の手間も多くなる。しかし、それまでの給桑の方法で対応するだけの労働力を確保することは、経済的にも大変であった。そこで、桑葉をこき落とす手間を省くため、枝ごと与える条桑育が普及していったのである。
条桑では三眠まで、座敷の蚕室で密閉飼をし、三眠から起きると木小屋(きごや)(納屋)の土間で飼う。土間に四~四尺五寸幅で帯状に石灰をふる。石灰は蟻(あり)が入らぬようにするためである。その上に、蚕棚から蚕籠を出し石灰の上に蚕をあける。そして、桑葉を枝ごと一本ずつ並べて載せていくと、蚕がそれに上って食べ始める。一日に三回条桑を与える。ニワオキル(四眠あける)と回数を増やし、食い盛りには五回程与える。
ウラトリしないので、次第に高くなり、そのままでは立って条桑を与えるニ尺程の高さになる。そこで、ニワヤスミから起きたころに、一尺二~三寸の高さとなるので、上に二本縄を張り渡し、その上に条桑を並べ、蚕が上がり終えると、下の蚕糞や枝を切り取るようにしてウラトリしてしまう。
この土間だけの条桑育では、蚕を多く飼えば面積も必要なため、二段飼をするようになった。これは三尺程の高さで、石灰を撒いたとほぼ同じ幅のたなを一段設け、その上で条桑育をするものである。同様に三段飼をする家もあった。また、条桑育が取り入れられると、三眠前の蚕への給桑も、枝葉の柔らかいところをハサミで切って与えるようになった。
なお、木小屋は風が入ると気温が下がってしまうので、まわりに、薩摩芋の苗床(なえどこ)に使った茅屋根(かややね)をたてたり、幕を張ったりして風除けとした。
こうした条桑育へ移行すると、座敷の蚕室で上蔟までしていたころに比べて飼う量が増え、大きくやろうとする家では、トタン屋根で周りに葦簀(よしず)を張ったバラックを庭に建てる農家もあった。
しかし、条桑が取り入れられ手間がはぶけてもその分飼育量が増えたので、忙しさは依然として同じであった。稚蚕の世話は主に家の女たちがしたが、三眠起きてからは給桑の回数も増え、男も一緒になって世話をする。四眠おきからは家族中が殆ど付きっきりになるほどの忙しさであった。

<< 前のページに戻る