北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

2 養蚕の技術

繭搔きから出荷
上簇して一〇日程でマユカキ(繭搔き)をする。藁マブシの中から一つずつ手でむくようにしてぬきとる。この繭搔(まゆか)きも人手を必要とし、一貫目いくらで人を頼んでいた。近所の養蚕をせぬ家の婦人が頼まれていた。繭搔きをしながら、ホンマユ(木繭)とノビ、ハッパ、タマを区別してゆく。ノビは汚れたり格好の悪い繭、ハッパは薄い繭、タマ(玉)は中に蛹(さなぎ)が二つ入った大きめの繭で糸を引いても節が出るものである。繭搔きは非常に手早い仕事であった。一人一日繭搔きして三貫目程であった。その後、余計なケバを取りきれいにすると、三尺籠に蚕座紙(さんざし)を敷いた上に、一枚一貫目ずつ繭を入れ、再び棚にさしておく。ケバ取りには第二次大戦前にケバとり機が入ってきた。それまでの手でケバ取りする手間が楽になったと思ったが、間もなく養蚕を止めた家も多かった。

写真35 自宅にて繭かき

(昭和53年9月28日)

出荷の日が決まると、五貫目あるいは一〇貫目入りの木綿袋に入れ、統制前は繭買(まゆか)いあるいは荷役(にやく)と呼はれる仲買人に渡される。繭買いは荒井(二軒)と川田谷におり、昭和十七、八年ころまで繭を買い付けに回って来ており、養蚕農家は売った繭を荷車で繭買いへ運んだ。繭買いへは、長野県や群馬県の製糸会社が買い付けに来ていた。製糸が買い付けにくると繭買いは見本を見せ、糸相場によって繭の値が付けられた。昭和十五年ごろ、北本に丸興製糸の出張所が移転して来るころには、養蚕組合が丸興製糸と契約生産することになり、繭を共同出荷するようになった。石戸地区は高尾、荒井、石戸宿、下石戸上・下で石戸養蚕組合が作られていた。現在は農協が繭出荷も扱っている。
出荷の出来ぬ悪い繭は、自家用に糸を取って織る家もあった。タママユなどが使われ、染めは鴻巣や桶川の紺屋へ出し、それを着物に仕立てていた。また、嫁や婿を出す時には、良い繭から糸を取り、深井に二軒ある機屋へ平織や縮緬(ちりめん)などに織りに出していた。
糸を取るには、繭を乾燥させて煮るが、乾燥には木の箱に一五~二〇段の棚を作り、棚に繭をいれ、下に炭火を入れ蓋をして乾燥させていた。

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