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第3章 農業と川漁

第4節 養蚕と桑苗生産

4 桑園の管理

桑の品種
大正四年の『蚕業取締事務成績』より、北足立郡の桑園に植えられた品種を見ると、夏蚕用として「十文字(じゅうもんじ)」「多胡早生(たごわせ)」「青木(あおき)」「市平(いちへい)」「魯桑(ろそう)」とあり、夏秋蚕用に「魯桑実生」と記載がある。この時代、春蚕中心であったことが、桑品種の需要に表われてきているが、大正の末期になると、その様相に変化が表われてきた。大正十五年の『蚕糸要綱』(埼玉県蚕糸試験場)の蚕品種の記載の筆頭は春夏蚕兼用であり、次に夏秋蚕主用、春蚕主用とあり、桑品種選定のあり方が逆転している。そして、春秋蚕兼用には「春日(かすが)」「改良鼠返(かいりょうねずみがえし)」「清十郎(せいじゅうろう)」、夏秋主用には「魯国野桑」「魯桑」、春蚕主用には「多胡」「市平」とある。
石戸宿の養蚕農家から聞いたこの間の品種とそれが桑園の中で占めた割合は、大正末ころまでは「八日市(ようかいち)」が六割、「多胡早生」が二割、「改良十文字」が一割、その他に「市平」「栗本(くりもと)」「魯桑」「霜不知(しもしらず)」などが植栽されていたという。「八日市」は「十文字」とも呼ばれたもので、枝が多いが葉が小さい品種で、「多胡早生」は春先早く発芽し、五月上旬の春蚕の掃き立時期に給桑する品種であり、この二種は明治末期には植えられていたという。また、桑葉の摘み取りの労働は思いのほか大変な仕事で、葉の小さな品種より大きなものであったほうが労力の軽減になることから、葉の大きな「改良十文字」が採用されるようになった。これは、葉が大きく木も丈夫であったが、葉の質に問題があったことも影響したのであろうか、それ程生産量は伸びなかった。
こうした品種採用の動向は、当然、桑苗の生産品種にも影響していた。大正末期の状況が、大正十三年六月に中丸村大字北本宿の桑苗生産農家から、埼玉県知事に届出された「桑苗生産届」(控)により知られる。そこに記された品種を、生産予定数の多い順に並べると、「十文字」「多胡」「富栄」「市平」「清十郎」であった。
さて、石戸宿の養蚕農家に話を戻し、昭和初期の桑の品種を見ると、「改良鼠返」が約七割を占め、残りの二割以上が「一之瀬(いちのせ)」「大島桑(おおしまそう)」で、他の品種も僅かずつ作られていたという。「改良鼠返」は鼠が登れぬほど、葉が密生している「鼠返」の改良種で、収量が多いが、秋早く傷む欠点があった。「一之瀬」は葉が多くて質も良いが、枝条が少なく倒れやすいもので、「大島桑」は葉が大きく厚く、葉の摘みやすい桑であった。
また、先に名の出た「魯桑」は、桑園以外の所でも実生から成長し、川の端などに生えていた。これは木がひと抱え位にもなり、ドドメと呼ばれる実も大きなものができ、子供たちがよく食べたし、売られてもいた。

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