北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第5節 労働と休日

2 休日と農耕儀礼

マキアゲとノアガリ
前述の通り、市内で行われていた稲作法は、かつては大半が摘み田とか蒔き田と呼ばれる直播法だったのであり、マキアゲ、ノアガリともこの稲作法に付随した儀礼である。
マキアゲは摘み田の種蒔きが終ったときに各家ごとに行われた。時期は四月下旬から五月上旬の間で、この時期には人と会うと、「マキアゲをしたか」というのが挨拶になったといわれている。こうした挨拶が日常会話のなかで交わされることは、摘み田がごく一般的な稲作法だったことを示しているし、マキアゲの儀礼も広く行われていたのがうかがえる。
マキアゲはマキキリともいわれ、餅を搗いて祝うのが普通であった。この餅はマキアゲの餅ともいわれ、ボタモチにして食べる家もあった。餅の代わりに赤飯を炊く場合もあったが、この時の餅は家の神棚や仏壇にも供え、また、摘み田を手伝ってくれた親戚などにも配るのが習わしだった。
摘み田のマキアゲは複雑な内容をもった儀礼ではないわけだが、この時期はちょうど月遅れのお釈迦様(灌仏会)のころなので、これにあわせてシナカワリ(普段には作らない食べ物)を作り、特別にマキアゲをしないこともあったといわれている。
ノアガリはマキアゲと同じように摘み田の種蒔きが終った後の儀礼だが、これはマキアゲのように個々の家の儀礼ではなく、ムラ全体、あるいはいわゆる村組(ムラの中を区分する組で、北本では部落などと呼ばれる範囲)で日を決めて行われていた。
ノアガリを一斉に行う範囲は、地区によって若干異なっている。たとえば下石戸下では久保、蔵引(ジョウシキ)、ニツ家(フタツイ)、台原(ダイッパラ)、原に分かれていて、それぞれに鎮守の世話人がおり、この人が日を決めてフレ(触れ)を出したという。村組ごとにノアガリが行われるわけだが、久保では台原と連絡をとりあって同じ日にノアガリとし、この中の組(近隣組)ごとに言い継ぎで知らせた。言い継ぎというのは、一軒ずつ隣から隣へと口頭で連絡することである。ノアガリは二日間で、仕事を休み、それぞれの家では饅頭やボタモチ、米の御飯など、思い思いのご馳走を作って祝った。仕事が休みなので、若い者たちは集まって物見に出かけたり、かっては集まって力石(ちからいし)などを持ち上げ、力比べをしたという。ノアガリの日は、もちろん家で雇っているサクオトコも仕事は休んだ。
市内の西部は、ムラ(大字)ごとに飛び地が多く、入り組んでいるためか、下石戸下の例のように集落としてまとまっている村組ごとにノアガリを決める傾向にある。これに対して東部地域では、ムラ(大字)ごとに区長が日を決め、触れを出すのが一般的である。常光別所ではノアガリ正月といい、区長が日を決めて組ごとに言い継ぎで知らせ、北中丸では区長が決めて、区長の下働きをする人が触れて歩いた。下働きをする人は、かってはいくらかの賃金を出して区で雇ったが、その後はムラの中の家々が輪番制で勤めるようになったという。
ノアガリ・ノアガリ正月は、農作業の進み具合いをみて日を決めるのが原則だが、地区によっては毎年定まった日におこなったり、あるいは他の行事と合わせて日を決めた地区もあった。荒井では五月一日、二日を休みと決めていた村組があり、高尾では作神である榛名山への代参者が参拝から帰ってきて、御札を配るとノアガリ正月になったという。ちょうど春の節供の時期でもあり、これとからめて行われた。堂守りが「ノアガリ正月ヨー」と大きな声で触れて歩いたり、あるいは言い継ぎによって知らせられ、一日午後から仕事を休み、各家では手打ちうどんを作ったり、饅頭を作って祝ったという。

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