北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第3章 農業と川漁

第5節 労働と休日

2 休日と農耕儀礼

雨乞い
北本は総じて畑作地帯で、雨乞いも水田稲作のためというより、オカブ(陸稲)が日照りで枯れそうになったときに行うことが多かった。また、雨乞いをした覚えがないという地区もあるが、全体としてみていくと盛んな地域だともいえる。
雨乞いが行われたのは、第二次大戦前後までで、板倉(群馬県邑楽郡)の雷電様に行って水を貰って来て行うというのが一般的だったようである。この他に東松山市大谷の水神宮(雷電神社)へ水貰いに行ったり、稲藁で竜を作って川に流す方法もあった。時期的には七月下旬から八月上旬の間で、ムラを単位として行う地区が多かった。雨乞いは水がなくて困って行われるので、東間ではこの時には各家で洗濯を一切してはいけないといっていた。
板倉の雷電様へは、若い者二、三人が代表となって駆け足(昭和初期ころからは自転車)で出かけ、雷電池から竹ヅッポ(竹筒)で水を貰い、帰りは途中で立ち止まることがないように帰ってきて、水を鎮守の神木の頂上に結びつけたり、鎮守でタライや飯台(はんだい)にあけ、この水を竹笹で掛け合って祈願するのが基本的な方法だった。
ただし、地区によって方法が少しずつ異なるので、地区ごとに記すと、北中丸では区長が中心になって雨乞いを行い、板倉の雷電様から竹筒で水を貰ってくると、鎮守の氷川様の境内に飯台を出し、この中に竹筒の水を入れ、さらに水を加え、男たちがフンドシひとつになってシメを付けた笹で水を掛け合った。この後、みんなで一杯飲んで終るが、こうして雨乞いをすると二日以内に雷が来て雨が降ったという。なお、雷電様から水を貰った帰りは、途中で休んだりすると、そこで雨が降ってしまうので、交代で竹筒を持って走ったといわれている。
東間の雨乞いもほぼ同じで、若い者が駆け足で板倉の雷電様に行き、竹筒二本に水を貰って棒に吊して担いで帰り、午前一〇時ころ雨乞いを行った。浅間神社の境内に大きなタライを出し、これに貰ってきた水を入れ、さらに四斗樽で水を加え、神主が祈禱をしてからみんなで水浴びをした。
下石戸下も同じだが、ここでは村組ごとに行うのが基本だったようで、久保は台原と一緒に雨乞いをしたという。鎮守のヒカ様(氷川様)にある池の水をかい出し、ここに板倉の雷電様から貰ってきた水を入れた。
荒井も雷電様に水貰いに行ったが、ここでは代表が帰ってくるのを見計らって五、六人が途中まで迎えに出た。そして、竹筒の水が着くと、これを鎮守の天王様(須賀神社)の神木である杉の木の頂上に結び付け、周りに注連縄(しめなわ)を張り、神主が祈禱をしてから各村組(部落)が順番に鉦と太鼓をはたきながら「アーマツノリト、ヒトノリト」と休みなく唱えた。こうして二日間くらい続けるとたいてい雨が降りそうになり、いよいよ雨が降り始める間際になると麦藁で五、六間の長さの大きな竜を天王様の境内で作り、これを担いで荒川へ流した。この時にはムラ中が出て大騒ぎで、川までの道中にはみんながバケツで竜に水をかけあったといわれている。
また、荒井では東松山市大谷の水神宮に行き、一尺ほどの竹筒で水を貰ってきて竹の先に付け、これを天王様の神木の頂上に結んで木を揺すり、酒を飲みながら夕立が来るのを待ったという伝承もある。
荒井では板倉以外の雷電神社にも水貰いに行き、麦藁の竜を作って雨乞いをしたわけだが、竜(蛇)については高尾の宮岡でも作ったという。宮岡では麦藁で五メートルほどの蛇を作り、氷川様で祈願をしてから荒川に運び、水をかけてから流したといわれている。

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