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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

8 ヤマシ(山師)

コビキ(木挽)、キコリ(木樵)のことを、一般的にヤマシといった。荒井の福島春信さん(大正五年生)はヤマシの職を継いで三代目であった。祖父の代に職人の鑑札である木札があった。それには杣職と書いてあった。春信さんが一九歳の時に父親が亡くなったので、祖父の弟子にあたる人について仕事を覚えた。北本市近辺はケヤキやカシなどの木がふんだんにあったので、仕事のために遠くまで行くことは少なかった。
若いころ(二〇歳代)はドウヤマ(田島家)の仕事だけでー冬をすごせる仕事があった。仕事は枯木の伐採や木の下枝切り、ヤマセン(近所の人々が枯葉や木の下枝を採るために納めるお金)の集金(一反につき一円五〇銭、二〇軒を担当していたので三〇円)などがあった。戦時中は軍用材の伐採をした。カシはスコップの柄やボート材、自動車の車体、銃床などにつかわれた。ナラ・クヌギ・エゴの木などの雑木は薪(まき)として供出した。
昭和十年〜十五年ごろ、石戸村の近隣の常光、中丸、馬室、石戸には三八名のヤマシがいた。そのころは太子講などもして盛んであった。ヤマシはアトトリ(後継者)も多くいた。戦後、モトジメ(材木店)の仕事で建築用材を伐り出す仕事をするようになったが、間もなく機械化が進んだり四十年ごろには木もなくなったので、東京へ勤めに出るようになった。
用材を伐る時期のことをキリシンというが、竹は十一月に霜が降りてから伐ると虫が入らないという。杉は春に伐ると杉皮をむくのに楽ではあるが、虫が入り粉が出て持ちが悪い。杉は秋に伐ると皮の持ちが良いという。ナラやクヌギは秋に切ったものは薪にしても虫が入らない。戦時中の薪の供出は一まわり二尺七寸(八一センチ)の縄でしばったものを一束としたが、戦後は二尺三寸(六九センチ)で一束になった。エゴの木は外皮がすべすべしているので薪に束ねるのがむずかしかった。

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