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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

9 ヤネヤ(屋根屋)

荒井の津田治平さん(大正八年生)の父はオケヤで、母は指圧、鉞をしていて、本百姓ではなかった。治平さんは昭和八年、高等小学校を終えてすぐに年季奉公に出た。義兄がヤネヤをしていたので、春から奉公にでた。そのころは春から秋までオメシヤトイ(めしを食べさせてもらうだけの雇い人)であった。翌年の春になってやっと小遣い銭をニ〇銭もらった。年季奉公は、兵隊検査の年(二〇歳)まではハンパ者で、一人前には扱ってもらえなかった。仕事としては、家を解体した時に、おさえ方や止め方などを覚えた。道具は奉公しはじめた時から持たせられた。ヤネヤの道具はハサミ、ガンギ、ハリ、カタナなどが主な道具で、ガンギやハリなどはクミ(組)によって違っていた。ハサミなどの金物は新潟の三条のもので鴻巣の清水金物店で買った。昔の石戸村にはヤネヤのクミが三組あって、一つの組には親方のもとに五〜七名の者がおり、あわせて二〇名ほどのヤネヤがいたことになる。
葺きグサは山ガヤ、小麦ガラ、野ガヤ(ヨシ)、ワラなどを使った。草葺屋根のタル木は竹である。ワラ束の使用量は地坪(建坪)の倍で計算する。一坪には四〇センチの厚みで六〇〜七〇束のワラが必要であり、カヤの場合はノビ(長さ)があるから、ワラや小麦ガラよりも少なくてすむ。
グシ止めはオンナヨシ(髓が長い葭)をワラ槌で打ってやわらかくし、これで竹を編んだ簀(す)をつくり、これをかぶせてアカ(銅)の針金で止める。ワラでおさえた時は、ワラデッポウ(藁ヅト)で竹簀を止め、その上を針金(銅線)で止めた。クサ屋根はトタンやカワラでグシ止めをするのが一般的になったが、このグシカワラは三枚ずつ並べるのが普通で、大きな家では五枚ずつ並べた。両方のハタ(端)はフジナリ(富士の形)とか三角形に造るが、その中にミズガメ(水亀)を入れるのが一般的であった。中には「寿」の字や家の姓を入れる人もいたが、これはワラを使って彫り(浮き彫りにする)、その上に墨を塗って浮きあがらせた。
尾根葺きはグシ止めで終わる。そのあと、ダンゴ、オサゴ(お散米)、酒、塩を供え、親方が幣束を作って祀り、祝詞をあげて終わる。

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