北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

13 イシヤ(石屋)

本町五丁目の堀口石材店は、昭和四十九年に現在地に来たが、その前は石戸宿で代々石屋をしていた。石屋の仕事は四代前にはすでにやっていたことは確かである。しかし、それ以前のことはわからないという。四代前は横田姓であったが、祖父の代で堀口家へ養子に入った。しかし、その後、実家にもどったが、堀口の姓は変えず、そのままですましてきたという。現在の戸主である堀口忠義さん(昭和十一年生)は七人兄弟で、男五人に女二人の三男であるが、二男が幼くして亡くなったので、次男のような気持で育ったという。実家は農業を兼業していたので、長男が農業を継ぎ、石屋を忠義さんが継いだ。仕事は実父のもとで修業したので、他人の所で働いた経験はない。石戸宿の実家は荒川の川べりにある。以前の荒川は今よりも水の位置が高く流れていて、父の代(昭和五十四年死亡)まで帆かけ舟が来たのを覚えているという。以前の荒川は川筋のどこでも石屋の細工した跡がたくさんあった。また、石屋の仕事は墓石よりも家の土台石を削る仕事が主な仕事であった。石材は戦後すぐまで、鴻巣の駅に着いたものを馬車で曳いてきた。石の材質は、優れたものとしては伊豆の「本小松」があり、ついで、福島の白川石があるが、この石は軟かい。その他に群馬のソウリ(沢入)や笠間の近くの稲田でもミカゲ石を産出する。筑波山から笠間の間にはミカゲ石の層があり、昔からその名が知られていた。現在は加工地として名高い。近く秩父には青石などあるが、昔から福島の白川石(福島)や須賀川石が多く使われた。伊豆石(昔は帆かけ舟で送られて来た)は値が高かった。

図18 石屋の道具

図19 石屋の道具

図20 石屋の道具

石屋が他の職人と違うのは、仕事の前にノミの焼き入れをしてから出かけるので、仕事場に遅れていってもよかったのである。石屋の職人は平均して一日に四〇本から五〇本のノミが必要である。ノミは鋼鉄ですべてができていて、刃先の焼き入れによって石に合ったものを揃える。焼き入れが硬いと刃先がとび、軟かいと刃先がめくれる。ノミの先を細く長くすることをカドイレというが、その仕事の仕方によって細さや長さが異なる。機械化される以前は墓石一個で、削り一週間、磨き一週間といわれ、工賃は墓石一本で、三〇二ンク(人工)とされていた。
現在の石屋のほとんどはチェンソーを使って仕事をしているが、このチェンソーを使うようになったのは戦後である。それまで石を運ぶには、アイビ板を入れてころがすのが基本的な移動法であった。墓地などの高い所に石をあげるには、高い所に滑車をとりつけ、低地にカグラサンをすえて、コロを使って曳きあげたものであった。渡り石屋の職人は新潟から来た人が多かったという。

<< 前のページに戻る