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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

1 コウヤ(紺屋)

荒井の福島亀吉(明治三十八年生)家は、父の代までコウヤをしていて、半纏(はんてん)・小紋・友禅なども染めていた。小紋や友禅は、明治の中ごろに化学染料が出まわるようになって以来、ネリ(生地を練り、石鹼とソーダ—で煮てやわらかくすること)をしてからカタヤ(型屋)に出したものであった。
小紋や友禅の注文を受けた時のコウヤの仕事は、注文の品を受け(模様を決めてから引き受け)たあと、絹織や紬(つむぎ)の生地をネリあげてからカタヤに出す。カタヤでは模様にあわせて糊付けをし、ナッセン(捺染)してコウヤにもどす。コウヤではその品物のシャクハバ(長さや幅ー尺幅)をきめて客に渡すという仕事をした。カタヤは菖蒲、松山、川越にあって、その当時は自転車に積んでいきナッセンしてもらった。
昔のコウヤの仕事は、農家の人々が自分で綿を作り、木綿の糸を紡(つむ)いで持ってきたものを染めあげてやり、工賃をもらうだけの仕事であった。そのころは、屋敷の中に井戸を掘って水を汲みあげ、その水で染めあげた糸を洗った。染めの仕事は、家族と使用人二人ぐらいを使う程度であり、アイガメ(藍甕)が二四〜二五本もあったのは、アイ(藍)をカメ(甕)に入れてねかせておくための必要からであった。染めに使うカメはミズアサギ(薄藍)からしだいに濃い力メに入れていくものであり、これに使うカメは一〇本ぐらいであった。染めの時期は冬場であるので、染めをよくするために、カメに熱を加えて温めた。四つのカメの間にたき火をしてカメを温め、それから染めた。カメ場が母屋の中の土間にあるのは、保温と火の始末に適しているからである。
アイダマ(藍玉)作り
荒井の加藤大作さん(明治四十三年生)は祖父の代まで夏作としてアイダマを作っていた。
春に植えつけたアイグサ(藍草)は秋に入ると刈り入れて乾燥し、アイゴヤ(藍小屋)の土間にムシロを敷いて、その上にアイグサを積み重ね、上から水をかけて発酵させた。ときどき、三本マンノウでかきまぜ、ムラなく発酵させた。そのあと、発酵したアイグサをウス(臼)に入れて太いキネ(杵)で搗(つ)き、直径一メートルほどにかためてアイダマを作った。アイグサを搗く時は近所の人に手伝いを頼んだ。アイグサも近所の家で作ったものを集めてアイダマに作り、荷車に積んでコウヤに持っていった。盛んな時は、川越(五箇村)あたりまで荷車を引いて持っていったこともあった。

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