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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

2 ヨリヤ(撚屋)

ヨリヤは木綿や絹の糸に撚りをかける仕事をする。高尾の新井儀兵衛さん(明治二十九年生)がイトヨリの仕事を教えてもらったのは一〇歳のころであり、三〇歳のころまで仕事をした。養子として今の家に来てからも冬場には仕事をした。ヨリヤの仕事は秋の十一月から五月初めごろまで農閑期の仕事としてやっていた。
木綿糸は右撚りのアヤイト(綾糸)で、二日に一把(二〇歳のころで二〇銭の手間になった)の割りで撚りあげた。このアヤイトの使いみちは、主に高機(たかはた)の縦糸に用いられるものであり、川越の糸問屋が糸玉をもってきて撚りあげたものを持っていった。一貫二五〇匁(五キログラム)でヒトタマ(一玉)といい、トウイトともいった。また、一〇把で一(ひと)マル、二〇把で二(ふた)マルといって数えた。木綿糸はアヤイトの他に、足袋(たび)の縫糸にするヨリイトも撚った。これは主に行田で縫われた足袋の縫糸にするためのもので、行田の斎藤という糸問屋が頼みにきたが、アヤイトを専門にして、タビイトの方はあまり受けなかった。
 撚り賃(大正五年ころ)ー木綿糸ー
  アヤイト 一把 六〇銭
  タビイト  〃  五〇〜六〇銭
絹糸は左撚りで、これは投網やタモ網などの網糸として用いられた。これは近所の人の頼みに応じて撚ったものであるが、糸のもどりやよじれが少ないので評判となり、頼みにくる人が多かった。絹糸は乾燥に弱いので撚る時は湯をわかして部屋に湿気を含ませた中で撚った。ザグリ(撚り器)は力のいる仕事なので女にはできない。手撚りを長い間つづけていたので、年をとるにつれて手がふるえて力が入らなくなり、字も書けなくなった。儀兵衛さんは実兄からイトヨリを学んだ。実兄は実父より伝習した。そのころ、石戸宿には横田市平さんがおり、荒井地区にはタビ糸専門の岡野徳兵衛さんがいた。徳兵衛さんはその後、荒井地区のヨリヤの元祖となった。高尾の大畑喜市さんはその弟子である。
横田市平さん(明治二十八年生)は、明治の終わりころ(一六歳の時)、父の知人がイトヨリをやっていたので、農閑期を利用して習いはじめた。その当時は家でカイコ(蚕)を五〇貫ほどやっており、農家でもあったが、農閑期になるとイトヨリをつづけた。イトヨリは朝早くと、夕刻にやり、日中は杉山を持っていたので山仕事をしたり、畑仕事をした。
イトヨリは木綿のアヤイトの賃撚りで、問屋は川越の金子商店であった。行田のタビイトも撚ったことがあったが、アヤイトの方の仕事を主にやった。その後、ガス(木綿を火などにくぐらせて強くしたもの)糸なども撚ったが、主に木綿を専門にやった。普段は六本撚りをやっており、時々八本撚りの太い物を頼まれたこともあった。アヤイトは一本の長さ三〇間、そのうちに注文が多くなったので、イトヨリの機械を考え出し、一日に三二本から四〇本も撚るようになった。時には五〇〜六〇本も撚ったこともあり、景気のよかった時に畑や山を一町歩ほど買った。機械はツム(細い鉄の爪)にかけて、カタン(糸うけ)で受けて撚ったもので、これは桶川の建具店で作ってもらった。はじめは手まわしでやっていたが、その後、足で踏んで廻すものを考え出して撚るようになり、忙がしい時には家族の者に手伝ってもらって撚った。二〇代のころ、一束、一貫二〇〇匁のものを三束ほど背負って地下タビを履いて行田まで届けにいったりしたが、その後、自転車で行けるようになった。また、若いころ、賃撚りでなく、自分で糸を買って撚ったものを売りにいったこともあったが、あまりもうけさせてはくれなかった。

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