北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第5章 交通・交易

第6節 仲買・問屋

明治三十年六月十日付けの『中外商業新報』の鴻巣地方における「新繭市場巡察記」には、
「鴻巣は武州北足立郡中第一の繭集散地にして近年養蚕の進歩に従ひ蕨、大宮、上尾、桶川等亦幾分か繭集散するに至りしと雖も到底鴻巣と比較すべきにあらず」とあり、当時鴻巣が北足立郡北部の繭集散地であったことがわかるが、こうした状況は前後数年間のことであったという。また、繭の市については、
「鴻ノ巣に於ける繭買入所は富岡製糸所及三井名古屋製糸の買入所としては丸上商店(渡辺与吉氏)あり開明社、尾沢組、片倉組を始め大小十二ケ所あり、例年概ね本月一日頃より繭買入に着手するも本年は収繭の後れたる為め未だ買入を開始せるものなく、一般十二日頃より開店の見込にて夫より一、二日を経ば各地より続々荷物雲集し最も盛なるに至れば夜を以て日に継ぐこと例年の常にして、其買入方法は午前中は各地坪方より持込と称し小口の荷を持出し来るものに対して商談を試み午後は各村落の買継所より送来るものを仕切り夕刻に至れば俗にせりと称する一種の仲買人の持込むものの取引をなすを常とし、外に四、九の日に市の立つことなるも此等は生繭季節後に於ける乾繭の仲買取引たるに過ぎすして其額の如きも至て僅々たりと云ふ」
ということである。
明治三十年ころの鴻巣地方における繭の取引は、収繭時期に鴻巣に大小一二ヶ所の繭買入所ができ、午前中は農家の人たちが繭を持ってきて取引をし、午後は農村地帯にできる買継所より送られてくるものを集計し、夕方になると仲買人の持ち込んだ繭の取引をするわけである。
北本の農家は養蚕を盛んにしていて、できた繭は、前記の記事にみられるように、糸繭商という仲買人に売るか、鴻巣の買場に持っていくか、各村にできた買入場に持っていくかであった。仲買人に売る場合は、仲買人が繭ができたころやってきて、「どうだい、繭はできたかい」などといいながら、農家を回って繭を買って歩くのである。良い繭ができた場合は高い値段で売れるが、時々悪い繭ができてしまうので、そのようなときには買い叩かれてしまうという。鴻巣に繭を持っていくのは、鴻巣寄りの農家の人たちが多かったようである。信州の諏訪や岡谷の製糸会社は、石戸宿や荒井などに買入場を設けて、農家ではできた繭の見本を持っていき、それを見て値段を決めるというぐあいであった。
その後、昭和の初めには養蚕農家が養蚕組合を組織して、製糸会社と話し合いをして、値段を決めていた。さらに、戦後には養蚕協同組合ができ、組合を通じて繭を販売するようになった。
米、麦などの仲買をするのはコクヤ(穀屋)で、コクヤは石戸宿にも荒井にもあり、各村にあったようである。コクヤは米を買って歩いたし、農家の方からコクヤに米を持っていくこともあった。コクヤでは買った米を桶川などの穀問屋に持っていったのである。
農家では米や麦などを直接穀問屋に持っていくこともあった。荒井や高尾地区などの農家では、川越の穀問屋に行くことが多く、桶川の穀問屋に行くことは少なかったようである。距離は、桶川が一里で川越が三里であるが、川越の方が値段が高く売れるし、桶川に行くには坂が多くて大変なので行かなかったという話も聞いた。中丸地区などの農家では、川越からはよけい遠くなるので、ほとんど桶川の穀問屋に持っていった。しかし、ときには川越の方が値段が良いので、川越の穀問屋に持っていくこともあったという。それぞれの農家では川越でも桶川でも持っていく穀問屋は大体決まっていたという。
北本はサツマイモの産地であり、サツマイモの問屋が鴻巣には数軒あり、北本市内の農家は鴻巣の問屋に売ることが多かった。問屋の方から買いにくることもあったし、農家で持っていくこともあった。サツマイモは麦の空俵や古俵に正味一二貫詰め一駄(三俵)単位で売買した。
戦前は、北本駅や桶川駅などでは、八月末から十月にかけて、駅のホームが他所へ運ばれていくサツマイモの俵で一杯になったという。
サツマイモの肥料には稲藁を燃やした灰が非常に良かったという。そのため、北本市内のサツマイモをつくる農家は灰を必要としたが、畑地の多いこの地域では灰が不足していた。そのような背景の下に灰の仲買(ハイカイという)という商売が成立していた。また、灰は麦蒔きのときも使用した。
宮内ではハイカイをしていた人がいて、この人は、冬の寒い時期に朝一時か二時ころ起きて、荷車に松の薪を積んで、行田や吹上の方へ行き、灰と持っていった薪を交換してもらった。これを「ヘェドッケェにいく」といった。サツマイモを土産に持っていくこともあったという。この灰は、まず自分の家で使い、残りを近所の家に売ったという。荒井の農家の人は、上尾市の小針領家へ灰を買いにいったり、サツマイモを持っていって灰と交換したりもした。また、岩槻には灰問屋があり、中丸地区などには、問屋の番頭などが年中回ってきて、灰の注文をとった。この場合、向こうから送ってくれるが、岩槻まで荷車引いて買いにいくこともあった。

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