北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第5章 交通・交易

第8節 店

2 高尾河岸

『武蔵国郡村誌』の高尾村の「舟・車」と「川・堀」の項目をみると、舟は、荷船五艘で、四〇石積四艘二〇石積一艘で、渡船弐艘水害予備船三艘であり、また、「私渡 風土記に此川の岸に船問屋三軒あり近郷の貢米及ひ諸色の運送は此河岸より出せり」とある。

写真7 錨(いかり)と舫綱(もやいづな)

(高尾 田島和生家所蔵)

高尾河岸には荷船五解と船問屋が三軒あり、年貢米とかいろいろな物の輸送をしていたことがわかる。次に、明治中期ごろの「高尾河岸周辺復元図」をみながら、高尾河岸の様相についてみていく。
河岸近くには、渡しがあり、船荷上場がある。船荷上場には、荷物を納めておく倉庫と長屋がある。長屋には船荷積人夫とマッサージがいる。船荷積人夫は周辺にもいるし、農家で荷上げの手伝いをする人が何人もいた。河岸近くには河岸稲荷もあるし、荷上品の小売りや仲買いをする家もある。河岸問屋は三軒あり、荷物を陸送する馬力は五軒ある。
河岸周辺は町場の様相を呈しており、商家や職人などが大勢いた。
醤油の醸造と販売、醤油の行商をする家、米・麦・雑穀・肥料を扱う店、酒・煙草・雑貨を扱う店、銭湯、小料理屋、宿屋などの店、大工、棒屋、籠屋、ふるい屋、紺屋、山師などの職人がいた。
聞き書きの資料に基づいても高尾河岸の様子をみることにする。
現在、荒川は真直ぐ流れているが、以前は文字通り蛇のように蛇行していたという。川沿いには木もたくさん生えていた。木があるところには魚も棲んでいた。荒川の水は飲めるほどであった。河川改修により蛇行していた川を真直ぐにしたため、水量が減り、船が通れなくなったのだという。

高尾河岸に出入りする船は高瀬船で東京から毎日三艘上ってきた。東京からくる荷はワタダルといい、魚の腸の腐ったのを樽につめたもので、麦の肥(こや)しなどに使った。高尾河岸から東京に持っていく荷は、米・さつまいも・野菜・製材した材木などであった。船に乗るのは船頭夫婦が多く、その子供ものせていた。川を下るときは問題ないが、川を溯るときは、帆をかけた。水が少ないときは船底が川の底についてしまうので、綱で船を引いた。
川底の砂利を運ぶ船を砂利船といい、そんな船もあった。大正から昭和十年代までその仕事に従事していた人の場合、熊谷市久下の船大工に、長さ四、五間、幅七尺、深さ二尺くらいの船を作ってもらった。仕事するのは、川の水面が三尺くらいさがる農閑期の冬場で、農家の人に手伝ってもらった。鋤簾(じょれん)で川底を掘り、フルイに入れて洗ってから船にいれた。それから、船を河岸につけ、醤油樽(一斗樽)に綱をつけた担ぎ桶に砂利を入れ、天秤棒で担ぎ、岸に上げた。この砂利は馬力が陸送した。
荒川は筏が川を下っていったが、筏乗りが河岸で休んだりもした。
高尾河岸は、河岸を中心に様々な店があり、近隣の村々では、何か困ったことがあったときには「しようがなかったら高尾へ行け」といい、この「しょうがない」というのは「塩がない」という意味であるという。必要な物がなく困ったときには、塩でも何でも高尾へ行けば用が足りたのだという。

図2 高尾河岸周辺復元図(明治中期頃)

※本図は田島和治氏の調査資料及び「石戸村全図」(大正7年11月)を参考に市史編さん室で作図したものである。



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