北本市史 民俗編 民俗編一覧
第5章 交通・交易
第2節 渡し・橋
写真3 年貢米等の輸送の際使用された御用旗
(高尾 田島和生家所蔵)
北本には石戸宿村・荒井村・高尾村の三か所に渡しがあった。橋については、同じく高尾村には、新堀橋と江堀橋があり、新堀橋は「村道に属す村の西北糠田新堀の下流に架す長二間巾一間半木製」とある。江堀橋も、新堀橋と同樣に、堀に架してある橋である。古市場村には伊奈利下橋があり、「野道に属し村の北方谷田用水の中流に架す長一間巾一間石造」とある。別所村には中橋があり、「菖蒲道に属し村の東北鯉沼落の下流に架す長二間巾一間石造其他用悪水に架する三石橋あり」とある。その他、本宿村に橋三か所、宮内村に橋六か所、東間村に一か所、深井村に橋五か所がある。
これらの橋は、堀や用排水に架けたもので、長くても二間程度で、木製は少なく、ほとんどが石造であったことがわかる。以下では、聞書き資料に基づき荒川に架かる橋についてだけみていく。
荒川に架かる橋は、すでにみた渡しのところにかかっていたので、高尾と荒井と石戸宿の三か所である。
昭和十年ごろ高尾橋には船頭がいて、人が橋を渡るときには料金をとった。橋を往復するときは、片道の料金より安くなるので、最初に渡るときに、「帰りも通るよ」などといって、料金全額払っていった。川が増水して、橋が水に浸かってしまった場合には、船頭は舟を使って人を運んだ。橋が流された場合には、船頭が新たに橋を架けたという。その後まもなく高尾の橋は部落で管理する橋にとってかわり現在まで続いている。
写真4 旧荒井橋
(昭和54年)
これらの橋の中で最も頻繁に利用されていたのは、松山道に架かる荒井橋であった。川越に行くときには、桶川の川田谷の太郎右衛門橋を利用していた。