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第6章 衣・食・住

第2節 食生活

1 食料と食事

主な食料
食料としては、自家で作った米(水稲と陸稲の両方)や麦(大麦・小麦))、サツマイモ・サトイモなどの芋類、野菜類などが中心で、食料を買うようなことはほとんど無かった。米は、自家で食べるものは大部分が陸稲で、タゴメ(水稲)は売るためのものであったが、これは地域ごとの違いがあり、東間などでは水田が全くないため七割の家で米を買って食べ、残りは陸稲を食べていたという。大麦は小麦と違い粒のまま米と混ぜて麦飯とした。小麦は粉にひいてウドンやマンジュウを作る。
普段の食事に大麦を混ぜない米だけの飯を炊くようになったのは昭和三十〜四十年以降のことで、どこの家でもしだいに麦を作らなくなり、生活も豊かになってだんだん米だけの飯を炊くようになったという。それ以前には、陸稲を中心とした米に大麦を混ぜて炊いた麦飯を主食とし、味噌汁や潰物などの副食がつく食事であった。
麦飯を主食としていたころには、麦を混ぜない飯というのは何か祝い事や行事でもないと食べられなかった。たとえば結婚式・盆・正月・講などのときにかぎられていた。麦飯は腹もちがよくないうえに食べにくく、米の飯が食べたいものであり、白い御飯があればおかずはいらないなどといった。また、そのころでも、年寄りのいる家では別の小釜で麦の入っていない御飯を炊いて、これを年寄りは食べていた。子供もこの飯が食べたかったが、すぐに手を出したりせずに祖父母に食べてもいいか聞いてから食べたという。子供は、小学校入学くらいの年齢になると麦飯を食ベるように言われた。このほかに、米を収穫すれば米、麦ができれば麦というように、その季節に収穫したものを食べていて、一年中米と麦を混ぜて食べることができればたいしたものだという話もある。
アワ(粟)は、粟モチ(餅)を正月についていた家がある程度で、粟飯については、親などに聞いてはいるものの実際に食べたことがある人はほとんどいないようである。ただ、荒井の明治三十三年生まれの人は、麦飯を食いのばすための代用食として、切ったサツマイモを粟の中に入れてセイロで蒸したもの(アワゴハンといった)を食べたことがあり、これは甘みがあってうまかったという。ソバは台風に弱かったり、土地に合わないこともあって、あまり作らなかった。ソバは冬に食べるもので、夏にはつめたいウドン(ヒヤシル)にした。
サツマイモはふかして間食にしたり、御飯に炊き込んで食べたこともある。第二次世界大戦の食料難のころには、三度の食事にもサッマイモを食べていた。また、生のサツマイモを薄く切り、干して固くなったら砕いて粉にして、それをこねて作ったサツマ団子も同じころによく食べた。真黒ではあったが、蒸して食べると甘くてうまいといって、子供たちが喜んで食べた。サトイモはほとんどが自家用で、ヤツガシラ(茎も食べる)・ドダレ・エゴイモなどの種類があった。ヤツガシラの茎は、芋の収穫前に取って皮をむいて干しておく。

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