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第6章 衣・食・住

第2節 食生活

1 食料と食事

食事の支度から後片付け
御飯を炊く回数は一日に二回で、アサメシとヒルメシは一緒に炊いてしまう。炊く量は、家族や奉公人の数によっても異なるが、六〜八人程度の人数で、朝が二食分で一升五合くらい、ユウメシ用が約一升、また、一〇人以上の家族で一日に三升五合などといわれる。麦飯だと腹がすくため、皆だいたい一食に三杯くらいは普通に食べ、若い者やよく働く人は五杯も食べた。若い者は麦飯を三杯食べた後、サツマイモを蒸して食ベるというように、栄養のことなどよりもただ腹一杯になればよいといった考え方が中心であったという。炊いた御飯は普通は炊きっぱなしだが、夏場の暑い時期の一ヶ月くらいはオヒツに入れ替え、冬はふきんでも掛けておいた。朝に炊いたものは、昼には冷めてポロポロになるので湯か茶でもかけて食べ、食べきれないものは夕食にまわした。
食事の支度は、家にもよるが姑や奉公に来ている女中が行うことが多いようで、嫁などの若い者は田畑の仕事をした。冬から春にかけての農閑期には、嫁も支度をすることがあった。夕食の支度をする人は少し早めに田畑から上がって、家族が帰ってくると食べられるように支度しておいた。盛り付けなどの給仕は嫁、後片付けは女中などがする。女中はお勝手の仕事をすることが多かった。副食に魚でも買って食べることは、主人が「今日は魚でも買って食ペよう」などといって決めた。
食事を作るのは、ダイドコロ (土間)にあるカマド(カマダン)とイロリを使う。カマドは泥製で、ミソ(味噌)を作るときに使う大豆などを煮る大釜用の隣に、小釜をかける穴が二つくらいあった。イロリ(一間半に奥行きが一間程の大きさ)にはカギッツルシ(自在かぎ)が下がっていて、味噌汁などの副食を作るナべ(鍋)や湯を沸かすテツビンなどをつるす。食事の場所は、ダイドコロの横にある板の間のオカツテで、座順は上座の方に主人がいて、子供は親のそばに座る。
昼食でも外で食べることはあまりなく、仕事から帰ってきて食べることが多かったが、田畑が遠いときなどには弁当のこともあった。弁当は後から誰か持って来てくれた。弁当箱はアルミ製もあったがメンツという曲げ物が多く、これに麦飯や米のところをより分けて詰めて、真ん中に半分に切った味噌漬けを二つくらいはさみ、ふたと底の上下から押す。こうすると食べるときに塩気がきいてうまかった。水は一升びんにでも入れて持って行く。このほか、子供も学校に弁当を持って行った。麦飯だとさめてボロボロになり、ハシ(箸)にうまくかからないので、弁当箱を抱え込むようにして食べたが、米だけの御飯だと姿勢良く食べられたという。サツマイモを蒸したものや餅を持って行ったりすることもあり、餅だと、家にはまだ餅が残っているんだぞといって子供が自慢したという。

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