北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

2 母屋

部屋の利用
農家にとってダイドコロが朝起きてから寝るまでの生活の中心の場所であるのに対して、座敷は基本的には睡眠をとる場所であった。しかし、生活の向上は、次第に、部屋にも多様性を求めるようになってきたのである。北側の部屋はやはり寝所としての性格が強く、家族以外の者を立ち入らせない雰囲気がある。一方、庭に面した南側の部屋は人寄せ(客を招く)のときなどのハレの場として使うため新しく作られたもので、家の外に開かれている。

写真31 デエと座敷

デエは日常はほとんど使うことがなく、ザシキとともに婚姻・葬式・大事な客の宿泊などのおりに使われる最上の部屋である。デエはトコノマと呼ばれることもあるように床の間があり、違い棚・付け書院をもつ家もある。仏壇を収納する場所もある。アツドコ(畳)も他の部屋と違い、年中敷いたままにしておく家が多かった。天井は棹縁天井である。ザシキとヘヤの境はオビド(板戸ともいう)で仕切られている。南側の障子を開けると、廊下を隔てて坪庭などの植え込みが見えるようになっている。廊下を床の間の後ろにまわし上便所も設けてある。このように、他の部屋との差は歴然としていた。
ザシキは、床は板張り、天井は根太天井である。神棚があり、歳神様を祭る場所である。盆棚を作る家も多い。結婚式・葬式には畳を入れ、デイとザシキをぶち抜いて行われる。このようなデエ同様のハレの場としての性格以外に、ザシキは床部分では例外的に生産の場としての意味をもっていた。もっともそんなに古いことではなく、市域で養蚕が盛んになってきた大正から昭和十年ころまでのことで、稚蚕の密閉飼育とその後の成育のための「棚飼い」に一部改造し使われたのである。稚蚕飼育に必要な室温を上げるため、周囲の引き戸はもとより、天井・床まですきま風を通さないように新聞紙で目張りをした。床には三尺角の炉が切ってあり、天井には通気のための一尺五寸角くらいの穴が四角い木の筒を付けタナギに向けて作られていた。昭和十年ころから、蚕の「箱飼い」がはじまり、屋外にトタン葺のバラックを建てて飼うようになると、ザシキは稚蚕飼育のとき一時的に使うにすぎなくなった。

写真32 根太天井と養蚕用通気孔

写真33 棹縁天井

ヘヤは、一番奥まった暗い感じの部屋である。ヘヤやカッテザシキは古い家ほど開口部が少ない。荒井の遠藤さん宅は裏面全部が壁で水小屋に通じる勝手口だけがあいている。ヘヤには後に半間の片引き戸、カッテザシキにも開口部を設け雨戸をつけるようになるが、夏の暑い盛りを除き強い北西風の吹く冬はもちろん農繁期のころなど、締め切りのことが多かった。今日ではネベヤの呼称が多く、夫婦の寝所にあてられる。三世代の夫婦が揃っている場合の寝所は年寄り夫婦はデエに、若夫婦はカッテザシキを使ったりした。小さな子供たちは両親や祖父母と一緒に、大きな子供や叔父・叔母達はザシキを使った。長屋に部屋や隠居所があれば、老夫婦や叔父・叔母達はそれぞれに分かれて寝所とした。出産、湯灌、入棺もこのへやで行われることがおおかったようだ。小家族の場合は何度のように使われる場合が多くナンドの呼称もある。
カッテザシキは、かつての食事の場であり家族のだんらんの場であった。古くはイロリのあった形跡もある。その後、土間に張り出しをだしてからは、カッテにその機能は移りヘヤ同様に、寝所にあてられていることが多くなった。朝一番早く起き、夜一番遅く寝る若夫婦の寝所である。仏壇がこの部屋に置かれる場合もある。床は板張りで、冬でも畳を敷くことは少なくウスベリを使い、天井は丸竹を使った簀の子天井であった。なお、母屋裏面の閉鎖的な造りをこのカッテザシキで一応解消した。つまり、フキヌキとこの部屋を呼称する家もあるように、二間または一間分の北面の壁を抜き、雨戸を入れハキダシ(掃き出し)としたのである。

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