北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

5 建築儀礼

棟上ザ式・建前

写真43 棟上げ式

(本宿 関根利雄家)

作業は土台を敷き、柱を建て、梁を上げ、棟を納める手順で進む。棟が上がった時点でムネアゲ(棟上げ)式が行われる。棟上げ式はタテマエ(建前)・ジョウトウシキ(上棟式)などともいい、一切を大工の棟梁がとりしきる。
引き揚げられた棟には、へグシ、弓矢が飾られる。へグシは、ヒグシ・ヘイグシなどといい、長さ一〇尺の柱で先端にオオギクルマ(扇車)を付け、数本の布を垂らす。へグシを立てる数は、三・五・七本、時には一一本もあった。
いずれにしても奇数で、普通五本くらいだった。へグシは、棟梁に一本、残りは下職の親方(左官、屋根屋、ブリキ職など)に贈られる。あわせて、相応の引出物や御祝儀を付けるので、建主にはかなりの出費になる。それぞれの柱に三または、五・七色の布をつけるわけで布の長さは七尺五寸三分である。布の色は、普通は三色であるから、赤・白に好きな色、緑などを加える。このとき、棟梁の柱は二色増やし五色とする。
黄色の布は、建前が終わると様々な人たちがもらい受けていった。妊婦は、寿と書いて、腹带にし安産を祈願した。また、子供の着物のすそまわし・付け紐など、子供の成長を願って使った。戦時中は、黄色の布に虎の絵を描き、千人針を作った。
棟梁のへグシ(真ん中に立てる)にだけ、「女の七つ道具」を添える。つまり紅・お白い・櫛・かんざし・糸・針・かもじである。このことについては以下のような話が伝わっている。
「大工の女房がとても利口なんだって。あるとき、大工さんが、いくらやってもうまく柱が組めないで困っていたんだって。そしたらね、女房が、こうやればって、スミキ(桝組のこと)のことを大工さんに教えたんだって。そのとおりやったら、本当に家がうまくできてしまったんだっていうね。ところが、大工さんは、この女房を生かしておいたら自分の名がすたると心配して、女房を殺してしまったんだってね。それからは、女房の霊をなぐさめるため、棟上げのときには女房の持ち物を飾るようになったのだそうだ。」
この話は、河野たけさん(北本二丁目)が東間の生家(農家)で、子供のころ、建前があるたびに、母親から聞かされた話である。
災難除けの弓矢は、一または二本立てる。一本の埸合には丑寅(うしとら)の方角(北東ー鬼門)に向けて立て、二本の場合は未申(ひつじさる)の方角(南西ー裏鬼門)にも向けて立てる。
ミズクサ(ミズキのこと)の枝を半紙三枚、麻三房を使って棟に結い着ける。ミズキは、水が溜っていて、家を火災から守るからだという。これを「ムネシバリ、またはムネムスビ」という。
棟上げの儀式のお供え物は、酒・米、海の物・山の物などで地鎮祭と同じである。
棟の上で、 大工の棟梁が祝詞をあげ、祝いに集まった下にいる近所の人たちに紅白の餅・ムナセン(棟銭)をまいた。紅白の餅は、赤飯と共に、濃い親戚がハンダイに入れ持ってきてくれるもので、厚さ四、五ミリで長四角に切ったのし餅、または径一寸足らずのせんべいのキジのような薄い餅であった。上から、ひらひらとまいたという。拾った餅は、生のうち食べろといい、決して焼いて食べてはいけないという。銭は、五円玉とか十円玉をまいた。一〇八枚、または三六枚半(または、三六五枚)などのまきかたがあったようだ。建物の四隅に同じ額を投げるのだという。

写真44 上棟式の餅まき

(本宿 関根利雄家)

写真45 上棟式の祝宴

写真46 棟梁送り

上棟式が終わると、下でお祝いの宴となる。主客は棟梁で、次いで脇棟梁、または鳶頭・その他、各職人の親方、大工、鳶、濃い親戚、濃い付き合いのある人が出席する。御祝儀が出た時点で、頭がキヤリを始める。
この宴席が終わると「棟梁送り」となる。棟梁は建主側の人たちに付き添われ、牛車にへグシ、酒、米などの祝いの品々を載せ、キヤリをやりながら歩いて帰った。棟梁の家に着くと、今度は送って来た人を客に一席設けられた。答礼の意味で、大工がお酌してまわった。

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