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第7章 人の一生

人は生まれて一人前に成長し、やがて結婚する。そして死を迎え、一生を終える。この間の節目節目に行われる様々な冠婚葬祭等の儀礼を総称して「人の一生」という。北本市で生まれて、この地で結婚し、やがて死んでいった人々の一生を、「産育」と「結婚」と「葬送」を中心にして概観し、その変化の跡を尋ねてみようというのが、この章の内容である。
助産婦や医者の世話によって病院で出産するようになったのは、いつごろからだろうか。大正末までは助産婦さんに頼むよりも、出産に手馴れた近所のトリアゲバアサンに頼んで、帯祝いから分娩の世話、産湯やお七夜まで面倒をみてもらい、嫁ぎ先か実家で出産する例が多かった。嫁が子を産むということになると、その実家からはカ米やカ鯉、産見舞いが届き、お七夜や宮参りの着物も贈られる。母親は出産前後何日間かは娘の嫁ぎ先に手伝いに通うことになった。初誕生や初節供には、人形や幟りなどを、三つ身の祝いや帯解きの祝いには着物を贈る、といった次第で嫁の里もなかなか大変だった。
今の若者は見合結婚もあろうが、職場などで知り合った者同士が恋愛で一緒になり、仲人も頼まれ仲人で、豪勢な式場で結婚式を挙げるという例が一般的であろう。第二次大戦前後までは親同士で決めた縁組に従う時代であったから、嫁のやり取りは近場の二里(約八キロ)周辺以内で、仲人ジイサンや仲人バアサンの口利きによって、見合いで一緒になるというのが多かった。
婚礼にしろ葬式にしろ自宅で行われたから、近所組合の手助けなしではできない時代が長く続いた。葬式を例にとると、喪主の一族は一切手を出さないで、ハヤヅカイからアナホリ、葬具のしつらえ、台所仕事に念仏まで、何から何まですべて組合でやった。土葬から火葬に変わり、葬儀屋が活躍するようになって、葬式も葬儀場などでやられるようになった。ところで、常光別所地区には、遺体を埋める墓地と、墓石を建てる墓地と同じ家で二箇所の墓地を所有している所がある。

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