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第7章 人の一生

第1節 産育

出 産
出産のとき、実家に帰るのは、よほど手の足りないときか、初めての子どもで嫁さんが実家で産みたいと願ったときぐらいで、ほとんどは、嫁ぎ先でお産した。
その場合は、一週間ほど実家の母親が嫁の身の回りの世話をしにきた。
荒井地区などでは、嫁ぎ先でお産をすると産み血をその家に流すということで、良いこととされていた。
むかしは、産院、産婆などに頼らずに手慣れたトリアゲバアサンに面倒をみてもらうか、一人でスワリザン(座り産)で産むのが当たり前であったという。
昭和初期のころの話として、嫁は産み月まで働き、実際に陣痛がおきるまで植え田のハナトリの作業をした。おなかの子が腹の中で太りすぎて難産だと、「あの嫁は怠けてよう働かなかった」などともいわれたという。
明治生まれの人の話では、出産前に自分で古い着物などをほどき洗ったサンボロ(産襤褸)を作り、それを下に敷き、掛け布団を四つに畳んで置き、それに寄りかかって座るような格好をし、分娩の際、力が入りやすいようにと産婆やトリアゲバアサンが柱に帯を結びつけて、妊婦に引っ張らせた。産室は、ネマ(寝間)といって普段嫁が寝起きしている一番奥の暗い部屋であった。
妊婦の髪は、麻紐で結んでいる。この麻紐は、オシチヤ(お七夜)のセッチンマイリ(雪隠参り)のときに、ヘソの緒、鰹節、米、塩を半紙に包み箸に結ぶ紐に使用するものである。麻紐で髪を結ぶのは、妊婦が髪をとかすと頭が痛くなるからだといい、出産前の半月ぐらいは髪をとかさずそのままにしておき、お七夜になってはじめてほどくのであった。
高尾地区のA さん(明治三十三年生)のばあいは、お産をする部屋は、普段、自分がネマ(寝間)に使っているところであった。子どもが生まれる前になると、自分で座布団より少し大きめの木綿の袋を作り、その中に麦や稲の藁灰を詰めた、ハイブトン(灰布団)を用意した。陣痛が始まると、まず、畳に油紙を敷き、布団の上にハイブトンを乗せ、更に、その上に自分の腰巻きやサンボロ(産襤褸)を敷いて分娩に備えたという。むかしは、一斗桶につかまって座ってお産したとか、親が産婦の背後から腰を抱いて腹のところをぎゅっとオッペシタという。
大正八年ころまでは、大体嫁ぎ先で出産が行われ、奥の部屋に藁の上に油紙、灰布団が敷かれていた。昭和初期ごろから座産から寝産に変わった。昭和三十年代からは、出産の場所も家から産院などの専用の施設へと移り母子共に衛生面の環境も大きく変化した。

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