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第7章 人の一生

第3節 葬送

3 忌みあけ、年忌

葬式の当日、あるいは翌日、そして死後七日ごとに、餅や団子をつくる。四十九の餅(団子)、十三仏の餅、念仏餅、力餅などと呼ばれるもので、四十九の団子は四九個こしらえるところから、十三仏の餅は十三仏に供えるので、力餅は、力を落とさないようにと会葬者が分けて食べるところからこう呼ばれる。念仏餅などは親戚の家でついた大餅を葬家に持ち寄って、また会葬者に分けて持ち帰って食べてもらう。会葬者が分けて食べる餅や団子は、死者の持っていた霊力にあやかるためで形見分けの古態てはないかなどともいわれ深い意味があるらしい。

写真23 埋葬後の墓地のしつらえ

葬式の翌日、親族の者あるいは隣り組の者が墓なおしに行く。最近は埋葬直後その日の内にすましてしまう所もある。本来は親族で行っていた埋葬を、穴掘り役など他人の手にまかせるようになってから、この墓直しの習俗は発生したのだろう。
常光別所では、次の日になると、親族ぐらいが慕なおしといって、トコホリの人がつくった墓を、きちんとするまねをする。近親者のおじさんおばさんで墓に行って、墓埸へ竹を四角に置いて、卜メを刺してくる。
北中丸では、葬式の翌日は、ハカナオシといって、親戚の者が、塔婆、花を持って行く。ハカツキともいって組合の人が行き、墓の形を少し直す。
四十九日など、七日目ごとに、初七日・フタナノカ・ミナノカ・ヨナノ力・イツナノカ・ムナノカ・四十九日と親族は墓参りする。一般的には、初七日と三十五日あるいは四十九日が主で、外の日は軽く扱われる。この忌日の墓参りに、墓地のシチホントウバを、一枚ずつはがしてくる。四十九日が過ぎるとブクが抜けるといい、最も重い忌みの期間が終わる。喪に服していた親族の生活が普通にもどるのである。
高尾では、人が亡くなると、その組合の人達は、その家の神棚に白い半紙を張り、四十九日のブク開けまでははがさない。床の間には、いただいてきた各種のお札が置いてあるが、葬式の時は一時しまってしまう。大神宮様の扉も閉めてしまう。床の間には、普段は天照皇太神宮の掛軸がかかっているが、葬式の時ははずし、お寺から借りてきた十三仏の掛軸をかける。四十九日が過ぎるまでは鳥居をくぐらない。また、お祝いごともしない。氷川様のお祭りの時などもお札を受けない。四十九日が過ぎてから当番の家にもらいに行く。親が死んだ時のブクは百日、他の人のブクは一週間である。赤ん坊が生れた時の血ブクは一週間であける。墓のアマヤには四十九インがあり、七日毎(ごと)に一枚ずつ裏返しにしてくる。位牌は四十九日までは床の間に出しておき、仏壇へは四十九日が過ぎてから入れる。親戚の人も家族同様喪に服す。期間は四十九日である。ヒトナノカ(初七日)には、親戚の人が時間呼びで十時ぐらいに寄ってくる。葬家では団子をこしらえたり、ウドンや酢の物をこしらえたり、時期時期のものを作る。お墓には団子を持って行ってあげてくる。ボタ餅とお水とお花も持って行く。四十九日には、本膳(本葬)に出席した者を呼んで、ブク開けを行なう。亡くなった人は、四十九日で仏様になるという。四十九日まで、亡くなった人が生前着ていたユカタを、北向きにつるしておき、毎日水をかけてやる。冥途の旅でのどが乾くだろうからという理由である。百力日には、組合の人を全部呼ぶ。
荒井では、人が亡くなると「プクがかかりました」といって、組合の者が神棚に半紙を張ってくれた。四十九日まで家の者ははがさないでおいた。各神様に一枚ずつ張る。初七日には、団子とボタモチを作り、近所の人を呼ぶ。昔は膳を出し、それには必ず奈良漬と唐ガラシをシソで巻いたものを出すものであった。近親者と隣組の人達で墓参りに行く。初七日には、亡くなった人が身に付けていた浴衣やシャツなどをサオにさして、家の裏に北向きにして干し、毎日ひしゃくなどで水をかける。これを四十九日まで続ける。仏が水を飲みに来るとされている。組合の人は初七日、三十五日、四十九日のいずれかに、葬式のあった家に集り、ウドンをつくって食べる。フタナノカ以後は近親者だけで墓参りをする。七日毎に団子とボタモチを作り、供える。四十九日には近親者と隣組の人を呼び、団子とボタモチを作り、墓参りをする。このあとは、百力日、一周忌、三年忌などがある。
常光別所では、神棚へは三十五日か四十九日の間、半紙を下げておいた。死人が出た時はブクがかかっているので、三十五日間は鳥居をくぐってはいけない。Yさんが氷川様の総代をしている時、子供が死んで一週間で、お供えの餅を持って行った。その時はブク抜きをしてもらったが、その時も鳥居はくぐるなといわれた。三日目以降はヒトナノカを行ったぐらいで、フタナノカ、ミナノカをする家は無かった。年寄りが一人行く位である。ヒトナノカには、墓に線香を立ててくるだけである。死者の着物は陰干しをして、御供養で毎日一回ずつ水をかけてやる。四十九日の間は死者の魂は家の周りにいるのだから、水をかけてやる。四十九日経ったら燃してしまう。三十九日か四十九日に、近所の人と極濃い親戚の人を呼ぶ。どちらにするかは施主の方で決める。お客に来る人は線香代を持っていった。本当は深井の寿命院の檀家である一二軒は、深井のお坊さんに来てもらうのであろうが、いいやというので、こっちの無量寿院のお坊さんを呼ぶ。親戚の人と組合の人に線香を立ててもらう。住職にお経をあげてもらって、全部揃って地蔵堂の埋けた墓にお参りする。それを終えてから、その家の人が用意した御馳走を出す。葬式の時と同じ様な料理をした。引き物として砂糖だとか干しウドンを出した。ヒトナノカ、フタナノカ、四十九日の際には、要請があれば住職は来るが、それが無いと来ない。百力日までは、古い仏の方には絶対かまわない。新仏が出来た時は、古い方の仏には一切関知しない。
下石戸上では、初七日には近親者が集って墓参し、七本塔婆の一本を折ってくる。七日ごとに七本塔婆を一本ずつ
折る。四十九日で終わる。ブクがかかった家は、正月の行事、祭はしなかった。また鳥居もくぐってはいけない。
北中丸では、ヒト七(なのか)日に親戚とトコホリを呼ぶ。僧が拝んでいる時に、親戚の人が縁側で水かえをやる。四十九日には親戚を呼ぶ。死の忌をブクといい、一年間は神社へ参らない。それより前に行くと蛇が出るという。四十九日の間は、死者の着物を家の裏に北向きにつるして家族の者が水をかける。その期間を死んでから一週間だという人もある。
石戸宿では、トムライの後四十九日までは、仏壇の前に机などを置き、そこに位牌、供え物、香などを置いておく。四十九日が過ぎると位牌を仏壇に入れる。トムライを出した家は、四十九日はブクがあかないので、鳥居などをくぐらない。忌日(きにち)塔婆を墓に立てて、七日ごとにはがしていく。トムライの次の日、ブクヌキといって、親戚の人が見舞にくるので、組合の人に塩マンジュウを作ってもらい、これを持たした。今はスマンジュウ。初七日には、親戚の人や組合の人が寄って、その家で経を唱えながら、百万遍の数珠を回す。死んで四十九日は、着物を北向きにかけて、水をかける。死んだ人の着物や日常使っていた物を、カタミワケとして、子供や兄弟などで分ける。
最近では葬式と墓直し、忌日(きにち)参り、忌み明けなどを寄せてしまって一緒にやるようになった。葬式当日にすべてを寄せて行うところもある。親戚も広範囲になり、勤めの関係などで会葬者も多様化してくると、丁寧に段階を追って葬儀を重ねていくといっても、施主も大変だし、会葬者も容易ではないからだろう。

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