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第7章 人の一生

第3節 葬送

4 葬制・墓制

墓 制
葬法からみた北本市内の墓制は、一般的な方式(単慕制)であり、埋葬地に石碑を建て、そこを末長く死者を祭り先祖をまつる場所とする。ただし、常光別所(朝日)だけは、死体を埋葬する埋め墓と、石碑を建てて先祖をまつるマイリバカ(詣り墓)とが、場所を異にする両墓制である。しかし、火葬になるにつれて、常光別所でも埋め墓に納骨式の墓石を建てる単墓制に変化している。一般的な単墓制については、さらに寺域に共同墓地の形で葬られる寺墓と、村内の共有地の墓地に葬られる共同墓(そしてこの場合には薬師堂とか観音堂が墓地に接して建てられている場合が多い)と、個人の屋敷内あるいはその近くに葬られるウチバカ(内墓)の三つの形態がみられる。

図5 吉田晴子家個人墓

常光別所は昭和四十年代までは両墓制であった。昭和四十六年ごろから火葬が別所にも入ってくるようになって、昭和五十一年に、初めて納骨式の墓石を埋め墓に建てた。なぜこの別所が両墓制になったのか、そのわけは判然としないが、以下にその原因理由を推定するための資料をまとめて記す。
常光別所は四〇戸、現在は八〇数戸の世帯数であまり大きな農家はない。俗に「七別所八領家」といわれる内の一つという。ここは埋葬するのは地蔵堂の墓地、先祖代々の墓石を建てて供養するのは、無量寿院横の大堂跡墓地である。
無量寿院は、深井の寿命院(真言宗)の末寺となっているが、源頼朝の祈願寺だと伝え、寿命院よりも古くて当代で四十三世目だとも伝える。殿様の祈願寺で、江戸時代は六、七町の地所を持っていた。格の高い寺であるから、寺域内には死者の埋葬を許さなかった。火葬した者であっても、戦死者の遣骨であっても、地面は一切掘らせなかったという。無量寿院は小作で食っていたから、別所に吉田、三橋、柳井の三軒の先祖が住みついたころは、檀家は無かった。この三軒が同じころに別所に住み付いたという。ごく昔は三橋の本家が名主だった。
別所の本家筋の家は、大体無量寿院のお寺にはいれてもらえなかったので、深井の寿命院の檀家になった。寿命院を本寺とした家は別所で一二軒ある。三橋三軒・内田・金子・柳井がそれぞれ二軒、あとは吉田と長谷川である。古い家は寿命院の檀家であって、無量寿院の信徒であるから、寿命院では戒名をくれるだけで、葬式には両方のお坊さんを呼ぶ。一二軒以外の家は無量寿院の檀家である。
寺の境内の外の道路沿いの詣り墓の処には、大堂があった。草屋根の高さは五〇尺位で、左甚五郎が一夜にして建てたものといわれている。大堂には住職がおらず、その周りに六つの坊があって、そこに住む僧達が、昼は大堂に来てお勤めをし、夜は自分の坊に帰っていった。そして無量寿院がその別当職となっていたといわれている。坊にはホウジョウ坊、カイトウ坊、サイホウ坊、ホウジン坊、イリヤマ坊などがあった。とくにホウジョウ坊に関しては柳井喜一さんは実見しており、これは豆腐屋の脇にあった。どういうわけか柳井さんの持ちとなっていた。「花の木」は昔のお寺のお花畑であったという。詣り墓にある六地蔵は元は極楽橋のところにあった。ショウジン場といって、参拝の人が顔を洗う所がある。上の方の人は極楽橋を渡らなければ、墓へ行けなかった。お寺の大門は豆腐屋の方にあった。大堂はその後村持ちとなったが、修復維持が難しくなったので、昭和三十五年に解体移動し、現在は鴻巣の笠原の安楽寺の本堂となっている。なお当時の大堂には船が四隻ついていた。これは元荒川等が氾濫した時に用いた。墓地も大堂も恐らく村持ちの地所だったのであろう。

写真24 無量寿院

(詣墓 常光別所)

大堂の供養墓(常光別所の旧四五軒のもの)には、土葬する者はなかった。先代の住職も地蔵堂の埋葬墓の方に埋(い)けて、石塔だけを供養墓に建てた。寺の境内へは死人を埋けなかった。旧四五軒ほどの家は、埋め墓と供養塔と両方を持っている。無量寿院の五、六反ある境内の処は、元は山林で、一〇年ばかり前から造成して墓地を造った。新しい方の寺墓は、他所からの人が求めたもので、納骨式になっている。寺の塀の内には別所の昔からの人の墓地は一つも無い。墓石も一基も無かった。寺の歴代住職らの墓石も、寺域外の村の供養墓の道の右側に建っている。供養墓の墓石の内で古いものは、一八世紀のごく初期の年号が認められる。三橋家のものでは、正徳三年(一七一四)六月、と、享保三年(一七一九)八月、三橋亀之助の銘のもの、小川家のものでは、元禄十五年(一七〇三)十月、小川伊右門信士の銘のものなどである。
明治十二年六月現在調査の寺院明細帳によると、無量寿院は、田一町一反余り、畑一町六畝余り、宅地五畝、林二町七反余りを所有していたことが分る。これだけあれば、あえて檀家を拡張してもつ必要も無かったかも知れない。敗戦後農地解放で小作が無くなってから、檀家を多く持つようになったという。
地蔵堂の埋め墓には、墓石というものは一つも無かった。ただ自分の墓所の目印である小さな石はあった。本家の前に分家の墓地がある。供養墓の方も本家の前に分家の墓地がある。埋め墓のある処は、花の木との境の道から少し上った所で、昔は盛り土ばかりで薄気味が悪かった。明治のころ区割ができたかも知れない。埋葬する墓には、一つも石は立ててはいけなかった。石としては、子育て地蔵様があって、無縁仏様があっただけである。宝篋印塔が入口正面にあるが、名主の三橋さんの先祖が建てたものである。「享保九年(一七二五)、足立郡鴻巣別所村施主三橋伊八郎」の銘が入っている。供養墓の一八世紀初めの年号と併せ考えると、名主とか村の重立ち百姓の比較的経済力のある者が先ず、寺院の布教、先祖供養の教えに動かされて、供養塔だの墓石だのを十八世紀の初めころから建立しはじめた、この北本市域一帯にみられたパターンがうかがえる。地蔵堂は昭和二十年位のころ、こじきが泊っていて火事を出し焼けた。延命地蔵様もその時丸焼けになって、その後東京の住吉町から買ってきたものである。地蔵堂も作り変えた。戦後しばらくは堂守りがいた。

写真25 地蔵堂

(埋墓 常光別所)

「仏を埋けた墓地と墓石を建てた墓地とは同じ時代につくられたものだろうが、お寺には仏を埋けられないので地蔵堂の埋め墓をつくったんだろう。無量寿院では拝んでもらえないので、深井の寿命院に頼むようになったんだろう」と説く人もある。
十年位前に地蔵堂の墓地の区割りをした。古くからの家のものは、九尺間口に二間奥行きの区画で、新しい家のものは、六尺四方位の区画にした。区割する前は、シキビだのサカキだのの木が境になって、九尺に二間位の広さが一区画になっていて、瓦欠けが目印として埋けてあった。分家に出たばかりの時には、死人が出ると墓がまだ無いから、本家の分に埋けた。十軒位はそうしたところがある。他所からの人の墓が何基かあるが、これは昔別所に住んでいた人の分で、死に絶えたか他所に移った人の分をその人に分けたものである。
墓石を立てる時に、坊さんに開眼してもらう。その時に石に魂を入れる。金のある人は一年忌か三年忌の盆か彼岸に建てるが、十三年忌や十七年忌に建てる人が多い。本来は建てられる人は一人ずつ墓石を建てるものだが、代によっては貧しくてそうもいかないこともある。元は一夫婦が死ぬと、それを二人共にして一代一つの墓石を建てた。昭和四十八年ころから火葬になって来たので、土葬は今日でもやっているが、その後埋め墓に墓石を建てるようになった。その時に供養墓から埋め墓に古い墓石を持ち込んだ。墓石を移す時には、古い方で開眼直しをして、新しく移した墓でも開眼供養をする。
埋め墓に最初に墓石を建てたのは、柳井一郎家である。昭和五十一年六月、祖母が亡くなって、四十九日の前に建てた。今までは土葬にしたが、火葬にしたくて、そのために納骨形式にした。その時無量寿院の住職から、間口九尺、奥行き二間、地上から二メ ートル止りにすると条件を出された。石屋は騎西町の釜田さんを頼んだ。墓石を埋め墓に建てるに当り、周囲からの反対はなかった。柳井家が建てた後、周囲も建てるようになり、逆に石を建てない方が数える程になった。今では無量寿院の条件を守っている者はなくなり、立派な墓石を建てる家も出てきた。この段階で両墓制は完全に崩れて単墓制になった訳である。
「墓石の方にお参りするのはお盆だけ。たまには彼岸にも行く。だってあれは空っぼだからね。何にも埋かってはしない。墓参りというと、地蔵堂の埋め墓の方に行くんだ。二つの墓があるといっても、仏が埋かってある方が本当の墓だという思いがする。供養墓の方は古い先祖の墓である」と何人かの人が語るのを聞いた。新仏が出来た時は、古い方の供養墓の仏には一切関知しない。百ケ日までは、古い仏の方には絶対かまわない。三十五日や四十九日や年忌の時は、埋め墓だけにお参りする。盆の迎えには、先に供養墓の大堂跡に行って、そこの灯籠から、提燈に火を点けてくる。そのまま埋め墓に行って、提燈の火から線香に火を点けて、墓に立てて、どうぞということで家に迎えてくる。送る時は、家の盆提燈に火を取って、先に墓石のある方へ持って行き、線香に火を移して立てる。その後埋め墓の方へ行って線香に火を移して立て、提燈の火を消して帰ってくる。

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