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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

北中丸
北中丸の神社は『風土記稿』によると上と下に分かれ、それぞれに鎮守と他に上中丸には七社、下中丸には二社がある。上中丸の氷川社は「別当 慈眼寺 新義真言宗 下深井村寿命院門徒 本尊十一面観音なり」とあり、稲荷社には「慈眼寺持」、他の六社は「以上六社ともに村民の持」とある。
また下中丸の氷川社は「上村の氷川社をうつせしなりと云、安養院持」、他の二社は「以上二社共に村民の持」とあり、これらとは別に表には載せなかったが、「太田社 里正幸左衛門が宅地にあり、相伝ふ彼れが祖先は岩槻太田氏の臣にて、天正十八年没落の後当所に土着し、太田氏の霊を祭りし社と云、土俗をたい権現と唱ふ、今は廃して未だ再建に及ばず」という記述もある。
『郡村誌』になると「正保以前より上下二村に分れしか明治八年合併して一村となす」として、村社氷川社以下を載せているが、『風土記稿』に比べると相当少なくなっている。これら『郡村誌』の神社は、全て明治の終わりに村社氷川社に合祀されている。
現在北中丸には、この旧村社氷川神社の他に、シンメイガトウと呼ばれる加藤姓三五軒で祀る神明社がある。この神明様は氷川神社に合祀されていたものであるが、ある人の夢枕に立ち、元の場所に帰りたいと言われたので、もとにしたという。特に祭りの日は決めていないが、当番が日を決め、寄って御神酒を飲む。
さて、旧村社氷川神社の沿革について『神社』では「氷川神社蔵の『神社由緒調書』によれば『享和元年辛酉十一月二十六日巳亥吉日良辰乎撰定 武蔵国足立郡上中丸村爾鎮座須掛毛畏キ正一位氷川大神明』とあり、その折の草創であることが知られる」としている。
氷川神社の祭神は素戔嗚尊であるが、合祀されている祭神として、天照大御神・倉稲魂命・面足命・惶根命も共に祀られている。地域の人ほ、氷川様と呼んでいる。
氏子範囲は北中丸と山中で、総代は北中丸の東・西・南・北の各クルワと山中とから一人ずつの計五人が出ている。総代の中より総代長と会計が選ばれる。各クルワでの総代の選出は、各クルワごと相談して決められる。
総代会は相談事項がある時に召集される。
氷川様に合祀されている須賀神社(天王様)の祇園祭の役として、サシ番が各クルワ二人ずつで計一〇人いる。また年番が各クルワごとになっていて、山中だけは戸数が少ないということで、スケ役として直接の年番とはならないので、年番は各クルワごと四年に一度回ってくることになる。年番に当たったクルワのサシ番、即ち年番サシ番がその年の主に祇園祭の総括責任者となる。

写真2 氷川神社(北中丸)

新しい人が氏子入りをするにあたって、特別な手続きといったものはない。
普段の掃除などは、留守居がいるので境内・外を清掃してくれることになっている。山中の老人会も、年二冋位掃除をしてくれる。
神社費用は、各戸あて年間費用を一〇人のサシ番が四月十日の例祭の時に集めて、総代の会計の所へ持っていく。
賽銭も総代の会計が集めて神壮費用とする。
年中行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭、四月十日・例祭、六月末・大祓、七月十四・十五日・須賀神社祇園祭、秋・新穀祭、十二月末・大祓
元旦祭(一月一日) 神主が来て御祈禱してくれる。
以前は、一月一日の朝行って戸を開けるだけだったが、この頃はいくらか初参りに来る者もいるので、総代が十二月三十一日夜一〇時頃に神社へ行って、戸を開けて初詣の準備をする。
例祭(四月十日) 昭和五十九年頃までは、お神楽を頼んで「蛇殺し」・「素盞嗚命」・「天の岩戸」などを余興としてやっていたが、費用がかかりすぎることや、子供らが見ても分からないなどの理由で止めてしまった。
今は総代が寄って神主に来てもらい、御祈祷をしてもらうだけで、お参りに来る人もほとんどなく、出店などもまったく出ない。
大祓(六月末) 神主の都合で日は決まっていない。総代が集まり、神主が来て注連縄を取り替え、御祈祷をするだけである。
祇園祭(須賀神社 七月十四・十五日) 氷川神社に一緒に祀ってある天王様の祭である。十四日は宵待で、この日獅子や神輿を出して飾り、神主が来て御魂移しをする。今はお金になったが、以前は十四日に餅を搗いて二重ねにし、神社に奉納した。二重ねの上の方は、獅子が十五日に各戸を回って歩く時に返し、下の方のものは年番の収入となった。
十五日になると、昭和三十七年国道一七号線ができるまでは、東・西・南・北の各クルワが毎年交代で神輿を担当し、山中はクルワが小さく神輿を担当できないということで、助役(すけやく)として毎年何人か出して村回りがあった。これは悪魔除けといって、獅子が神主と一緒に各戸を回り、魔を払って歩くもので、神輿の方は道順が決まっていて、途中幾軒かの家の庭で休みながら村を回った。
獅子は縁側から上り、台所から出るので、各家々ではムシロを敷いて家に上げた。この時獅子に頭をかんでもらうと病気除けになるといって、家の者が皆かんでもらった。
国道一七号線ができてからは、神輿がクルワを回るのに国道を行ったり来たりしなければならず、危険だということになり、神社の庭に飾っておくだけになってしまった。
祭は夕方五時頃には終る。
祭での賽銭も含めた収入は、その年の年番にあたったクルワの収入となる。
この十五日はまた、四月十日の例祭の時と共に若い衆の仲間入りともなっている。この時、仲間入りする者はいくらか包んで持ってきて、仲間入りとなる。その収入は、五クルワで分配することになっている。
神社費用及び祭費用は、各戸均等割で徴収する。集めるのは各クルワのサシ番である。
もとは、十六日に天王講をしていた。各戸一人ずつ、主に若い衆が出てやった。
新穀祭(秋) 神主の都合で日は決まっていない。総代が集まり、神主が来て御祈禱するだけである。
大祓(十二月末)神主の都合で日は決まっていない。総代が集まり、神主が来て御祈禱をする。この時総代が新年のための飾り付けなどもする。
幟を立てるのは、一月一日・四月十日・七月十五日で、年番が寄って立てる。

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