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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

石戸宿
石戸宿の神社は、『風土記稿』によると鎮守の天神社と稲荷社の二社で、天神社は「村民の持」とあるだけであるが、稲荷社は「傍に御茶屋敷跡と称する所ある故に御殿稲荷と称する、村民の持なり」とある。
『郡村誌』になると、村社天神社・稲荷社の他に厳島社・白山社が見えてくる。
『明細帳』では、これらの他に新たに八雲社が見え、天神社の境内社として稲荷社・太神宮社・三峰社が現われてくる。このうち、太神宮社に合祀された厳島社は『郡村誌』の厳島社であろう。この境内社は、現在もそのままであるが、なぜか『明細書』では須賀神社・稲荷神社・道六神社となっている。
『明細帳』に見える稲荷社は現在社殿だけはそのままであるが、御神体は天神社に合祀され、八雲社は天神社に合祀されて何もなく、跡地だけはそのままである。
現在、石戸宿で祀られている神社は、本宿の旧村社天神社・堀の内の石戸神社・九丁の八雲神社・横田の三峰社・水神宮である。
旧村社天神社について『神社』では「天神社本殿の銘文によれば『宝暦(一七五一〜六三)癸酉八月』とみられ、天神社は江戸時代中期頃の勧謂と推察できよう」としている。
さて、天神社の祭神は菅原道真公であり、地域の人は天神様と呼んでいる。
氏子範囲は、旧村社であるにもかかわらず石戸宿の四組、即ち本宿・堀の内・九丁・横田のうちの本宿だけである。
社総代は三人で、昔は同じ人がずっとやっていたが、今は四年交代である。ただし、留任はさまたげない。総代三人は、総代長など特に立てずに、祭などは総代に区長を加えた四人が主となって行う。
改選は、毎年三月に開かれる地区の集まりの時に、各班ごと車座になって、班ごとで投票していろいろな役を決めていく時に一緒に決める。
年行事は四人ずつで、順番が決まっている。昔は六〇歳以上の所帯・女所帯の家は飛ばして行ったが、今はそうした条件の家はほとんどない。また、区長になった家も飛ばせることになっているが、それにあたることもめったにない。
年行事は、幟立てなどの時に主体となって、フレを出したりする。また、十月十五日のお日待の一〇日前から、区長を先頭に稽古獅子が始まるが、その世話をしたりする。
また、本宿を上分・下分に分け、それぞれサシ番がいる。家並順の時計の針回りの順番となっており、サシを集めたり、お札を配ったり、他に寺の管理費を集めたりする。一回ずつの交代で、あたった仕事を一つ終えると次に回る。

写真3 初天神祭礼の幟立て(石戸宿)

写真4 初天神祭礼のご祈禱(石戸宿)

神社境内の掃除は年二回、盆の少し前と正月前の大晦日間際に総出で、神社に隣接する墓地も一緒にやってしまう。また年四回、宮世話人(総代)寺世話人合同で掃除をしている。
神社費用は十月十五日のお日待の時、サシ番を回して各戸から年間費用を集める。賽銭なども総代の所へ集めて神社費用とする。二〜三月の受験シーズンには賽銭も多くなる。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦、二月二十五日・大祭、三月・初午、十月十五日・お日待、十二月二十五日・大祓
元旦(一月一日) お宮は開けるが、幟は立てず、神主も来ない。総代・年行事がお参りに来る人のために居るだけである。
大祭(二月二十五日) 幟を立て、お宮を関けて、神主が二人来て御祈祷をする。この時はまだ寒いので、余興は何もしない。お札が出る。
この時、四人ずつの年行事が交代する。
初午(三月初午) 天神社に合祀してある稲荷社の祭りである。
幟を立て、神主が来て御祈祷する。お札は出ない。総代・年行事でお参りに来る人のためにお宮を開けておく。
お日待(十月十五日) 勤め人も多いため、十月の第二日曜日にしている。
祭の当日、午前中に総代・年行事でお宮を掃除する。幟を立て、神主が来て御祈祷する。お札も出る。
この時には獅子が出て、街道下りがある。街道下りは、神社から下の方の庚申様まで子供らが屋台を曳いて往復するもので、行列は獅子・笛・拍子木・金棒・貝・花籠・高張・花笠など役だけでも三〇人以上が必要で、楽器など特別な技能を必要とする役以外は、クジによって氏子全員の中から選ぶ。庚申様につくと、子供らにはジュースと新米で作った醤油の握り飯をふるまい、神社に戻ってくると菓子袋と雑記帳が配られる。
こうして街道下りも終わると、全員会所で一杯やってお開きとなる。
この日舞われる獅子舞は、一八年間ほど休んでいたが、昭和五十三年に復活して今に至っている。はじめ、消防団の若い衆が八人程で囉子を習いたいということから、毎週土曜日に必ず集まって一年間程練習をした。囃子の方が大体仕上がったので、次に獅子舞の方をということになったが、もうその時には獅子舞を知っている人は一人しかいなかった。もう一年遅れていたら獅子舞の復活はできなかったかもしれなかったという。
大祓(十二月二十五日) この日はカマジメであるが、大祓も一緒にしてしまう。六月三十日の大祓もこちらの方に一緒にしてしまい、一回にしてしまった。
大祓のお札は、サシ番が一軒ずつ配って歩く。
他に戦前までは、新嘗祭・神嘗祭(かんなめさい)などをやっていたが、戦後はなくなった。
天神様のお姿の版木があり、もとはそのお札も出していたが、今はしていない。
昭和初めころには、この本宿には天神講がなかったのでできなかったが、他地区の天神講の子供らが、宿に寄って作った旗を神社に奉納するために来て、天神様のお姿のお札を頂いて行った。

写真5 石戸神社(石戸宿)

石戸神社の祭神は菊理姫命である。氏子範囲は堀の内の五五戸で、新しい人が氏子入りするにあたっての特別な手続きなどは何もない。
総代は二人で任期は四年、二年ずつ交代で会計を勤める。選出は、毎年三月の第一日曜日に開かれる地区総会で、地区の役員の交代と一緒に投票によって行われる。
神社のことは、二人の総代と区長の三人でいろいろ相談して決めている。
他に各班一人ずつで、計七人の世話人がいる。これは各班ごとで順があるが、任期は班によって異なり、一年あるいは二年である。
掃除などは、堀の内の老人クラブで毎月一日・十五日にやってくれる。以前、秋祭の盛んだったころは、祭の前に皆が出て掃除をしたが、今はそうしたこともない。
賽銭は総代の会計が取り出して管理する。
神社費用は、秋祭などに集まる花代などで間に合ってしまうので、改築など特別なことがない限り、各戸からいくらか集めるということはない。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦、一月二十一日・新年祭、四月十五日・春祭、十月十五日・秋祭(お日待)、十二月十七日・大祓
元旦(一月一日) 神社を開けて、総代が何時間か居る位で、神主も来ず何もしない。
新年祭(一月二十一日) 総代・世話人が神社に集まり、神主が来て御祈禱する。この時お札が出るので、各世話人は自分の班の戸数だけお札を持ち帰る。そして各戸にお札を配りながら、この祭の費用とお札代を集めて、総代のところへ持って行く。
お参りに来る人は少ない。
春祭(四月十五日) 内容は新年祭の時とほとんど同じで、世話人がお札を配り費用を集めるのも同じである。
終戦後少し位までは、毎年ではないが神輿も出て、演芸も総代が業者のところへ頼みに行ってやったりした。その時は十三日から十五日までやり、十六日は勘定日待になった。こうしたことも段々にやらなくなってしまった。若い衆の囃子もあったが、もうなくなった。
大祓(十二月十七日) 神主の都合で日取りは変わる。この日はカマジメでもある。
大祓のお札の配布は、他の祭の時と同様である。
以前は六月末の大祓もしていたが、今はしていない。
幟は戦争中までは祭の時立てていたが、今は幟立ての施設がないこともあって、幟を立てることはない。
八雲神社の祭神は素盞嗚尊で、地域の人は天王様と呼んでいる。
この神社は、もと個人の氏神で、この人が他出した時、九丁に置いていったのを九丁で祀るようになったもので、日露戦争のころのことという。
総代などはなくて、全て区長がやっている。他に当番というのがあり、五班ある班ごとの交代であるが、この当番は神社だけの当番ではなく、地区に関わること全ての当番である。
掃除などは、年二回位夏場に当番の班が適宜やっている。
賽銭は地区費に入れている。
祭の費用などは、花代・賽銭などをあて、足りない分を地区費で補塡している。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦、六月十四日・五月灯籠、七月十四・十五日・祭礼
元旦(一月一日 )神社を開けるだけで、神主などは来ない。
五月灯籠(六月十四日) 当番の班と区長・区長代理が集まって、七月の天王様の下準備が始まる。神社を開けて提灯をつけ、胡瓜の穫れたのを供える。
神主は来ないで、七月の天王様の祭の打ち合わせをして、一杯飲んで解散する。
祭礼(七月十四・十五日)  七月十四日の前の日曜日に、小学生から中学三年までの子どもが集会所に集まり、神輿の飾り付けをし、お札も版木に墨をつけて子供らで刷る。
七月十三日か十四日の朝に、天王様の祭だということで、当番が出て境内の掃除をする。

写真6 八雲神社祭礼に出す子どもらの刷ったお札(石戸宿)

十四日午後四時頃から、神主が来て御祈祷するが、この時玉串奉奠(たまぐしほうてん)するのは、区長・区長代理・当番班長・中学三年の男女・前区長の六人である。終わるとすぐ子供神輿が出る。神輿は九丁全戸の他、すぐ隣りの川田谷・下石戸・堀の内などからも子供が幾人か神輿を担ぎに来るので、そちらの家も一〇戸位回る。神輿を担いで各家の庭に入り、お札を渡していくらか思召を頂く。この時集まったお金は、後で子どもらで分配する。
この子ども神輿は八〇歳になる老人が子どものころ担いだといい、日露戦争当時からのものともいう。
一方六時ころからは、カラオケと婦人部の踊りが始まる。
翌十五日には、神主も来ず、神輿も出ない。神社を開けるだけで、夕方からカラオケと踊りがある。夜九時ころまでやると、その日のうちに櫓を倒し、ご苦労さん会をする。終わるのは十一時ころになってしまう。
十四日の祭の仕事は当番が行うが、十五日の方は当番ではなく、各班の班長が集まってやることになっている。
幟は戦前位までは立てたが、戦後は立てなくなった。
十二月二十五日は力マジメで、神主は来るが御祈禱などはなく、集会所に集まる。この時、天王様のシメ飾りなども新しくする。
天王様の祭りの時には、各家での料理に豆腐と胡瓜は欠かさない。
三峰社は、三峰講から始まった小さな社である。講は一〇年位前に止めてしまっている。
氏子範囲は横田ということになっているが、社も小さく、横田全体を統合するといった感じにまではなっていないようである。

写真7 水神宮(石戸宿)

区長と横田四班の各班長とで管理しており、四月二十一日が祭りである。当日の朝、あるいは前日に区長と班長とで社の回りを掃除する。神主が来て御祈祷してくれるだけで特別なことは何もしない。
水神宮(石祠、「寛政十一己未六月吉日」の銘あり)は、昔荒川で水泳など習って、子どもらが水遊びなどをしたので、水難のないようにということで祀ったものである。
一応横田全体で祀っているということになっており、区長と各班長とで管理している。
七月二十五日に石尊灯籠を立てる時、神主に来てもらい御祈禱してもらうが、この時一緒に水神宮も拝んでもらうだけで、何もしていない。
横田では、子どもができたり、嫁に行く、あるいは嫁が来たりした時には、高尾の氷川神社にお参りに行く。同じ石戸宿(本宿)の旧村社天神社にはあまり行かない。
明治初めころには、本宿から神輿がこちらまで来て、横田にも囃子連があったという話はあるが、いつのころからかこうなっている。
昭和五十六年高尾の氷川神社横にある厳島神社(通称弁天様)を改築した時にも横田に話があって、各戸から寄付を出した。しかし、高尾の氷川神社に総代を出しているとか、氏子になっているとかいう訳ではない。寄付などが必要な時に、そうした話が来るだけである。
また、荒井の須賀神社の冬至祭・節分祭にも、横田内からお札の注文を取るなど、協力している。

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