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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

高 尾
高尾の神社は、『風土記稿』によると鎮守の氷川社の他に五社みえる。氷川社には「文明五年大宮氷川の男体を勧請せり、神体素盞嗚尊本地仏正観音なり」とあり、また「別当・泉龍寺・当山派修験京都醍醐三宝院の配下・古は大行院と号せしが、享保十二年三宝院指揮にて 慈眼山泉龍寺とぞあらためしと云、本尊不動を安置す」とある。
弁天社には「弁天は弘法大師の作、社は丘上にて傍に楓樹多し 故に楓ヶ岡とよべり 泉龍寺の持」とある。
天神社には「泉龍寺の持」、八幡社・雷電社には「村民の持」とあるだけであるが、牛頭天王社には「荒川の岸小高き丘山にあり、修験玉蔵院の持」とある。
これらの社は、そのまま『郡村誌』にも見えているが、『郡村誌』でほ他に、村社氷川社の末社に琴平社が現れてきている。
『明細帳』では村社氷川社について、やや詳しく「貞観十一年十一月十八日創立ニシテ旧地頭牧野家ノ祈願ナリ、其後文明五年六月武蔵国一ノ宮氷川社ヲ分祭シ、(中略)境外二小池アリ、其中央ニ島有テ厳島ヲ勧請シ其辺ニ楓樹アリ故ニ楓カ岡卜称ス、池水誠二透明ナリ」と記している。ここに述べられている厳島は、『風土記稿』の弁天社が『郡村誌』で厳島社と名を変えてきているものであろう。このことは『風土記稿』の弁天社の条に記されている楓ケ岡の名称からも知られる。
この厳島社については、『神社』にも「その御神体は、宝暦六年(一七五六)九月江戸神田新銀町中島久四郎と云われる方が、自分の宅内に弘法大師作と云われる弁財天の尊像を祀って置くと、一夜其の弁財天が夢枕に立って『是より北に当って楓ヶ岡と云う景地あり、其の地に移せよ』との言葉に夢醒めてから、染は今稍のはての高尾山もみぢが岡の錦なりけりと云う和歌を思い出して、各地を訪ねこの高尾村に来て、厳島社に奉安されたと云う」という伝承を載せている。
大正四年、この村社氷川社に、他の五社は全て合祀されて現在に至っているが、現在の境内には金毘羅社(琴平社)の他に、三峰社・御岳社と池の中には厳島社がそのままある。
さて、氷川神社の祭神は素盞嗚尊であるが、合祀されている祭神として大雷命(おおいかずちのみこと)・市杵烏姫命(いちきしまひめのみこと)・营原道真公・誉田別命(ほむたわけのみこと)も共に祀られている。地域の人は氷川様と呼んでいる。
氏子範囲は高尾で、宮岡・河岸・烏の木・丸山・谷足・西高尾・城中の七組より一名ずつ計七名の総代が出、任期は四年となっている。交代は夏祭の時にする。
他に当番(年番)が一年交代で、各組より戸数に応じて出され、計一七名おり、年四回の祭の時に幟立てをしたり、お札を各戸に配ったりする。当番は家並順となっており、毎年順に当番の札を渡していく。

図4 境内略図 氷川神社(高尾)

年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭、四月十八日・春祭、七月十八日・例祭(夏祭)、十月十八日・秋祭、十二月二十五日頃・大祓
例祭の夏祭を除いて、他の祭は総代が集まって御神事をするだけである。
例祭(夏祭 七月十八日) 祭の前に総代と年番が寄って祭りの相談をする。祭には年番が幟を立て、注連飾りをしてお宮の周りに灯籠を立てる。以前桶川の日出谷の人に神楽を頼んだりしたが、その手配や後片付けも年番の仕事であった。また、お獅子や小さな二人で担ぐ神輿もあって、村を巡ったこともあった。
今は櫓を立てて婦人の踊りがあり、河岸の囃子連などによる囃子がある。
境内の池の中にある厳島社については、四月十八日の春祭の時に一緒に祭をし、お札を作って氏子・崇敬者に配布している。安産と養蚕の神様だというので、繭を五粒糸に通して持っていってお願いするという。五粒には特に意味はなく、丁度良い格好になるからである。また、池の水を取って来て肌に塗ると、あせもに効くともいう。

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