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第8章 信仰

第2節 堂庵

宮内の堂庵について
『風土記稿』には五宇みえているが、この内地蔵堂と観音堂は『郡村誌』によって常福寺境内の堂であることが分かる。しかし『寺院明細帳』の常福寺をみると、境内仏堂一宇として地蔵堂のみが載っている。不動堂・十王堂には「村民持」、弥陀堂には「常福寺持」とのみある。十王堂は『郡村誌』では見あたらなくなっている。
現在の宮内には、観音堂、阿弥陀堂、不動堂の三宇がある。
観音堂の墓地は、大体上グルワとジンガ(神外)の共同墓地となっている。堂内には如意輪観音像と大師像がお祀りされている。
役員としては世話人が三人おり、主に年寄りが留任で長くやっている。
掃除などは一ヶ月に一回ずつ、上グルワ・ジンガの老人クラブに入っている者が、廻り番で三軒ずつでやっており、檀家からは掃除賃を出してもらっている。これにお賽銭を加え、更に各人足りない分を足して、秋ごろに旅行に行く。
三月十日は観音堂に祀っている大師様の豆イリ真言である。昭和三十七年国道一七号線ができてからも、昭和三十九年ごろまでは、大師様の厨子が上グルワ・ジンガの三一軒すべてを廻った。廻り順が決まっていて、次の順の家が厨子を迎えに行く。迎えた家では厨子を床の間に飾り、一緒について歩いている子どもやお婆さんに大豆とあられとを煎ったものをあげ、二重(ふたがさ)ね作っておいたお重を出してふるまう。大豆とあられは、各人持参の手拭いを半分に折って縫ったものに入れてやる。午後二時ごろから始め、終わるのは暗くなる。昭和三十九年以降は一七号線を渡って向こうの家へ行くのが危険ということで、結局厨子を廻さなくなり、豆も観音堂へ持って行くようになった。お重も隣組の組長が観音堂に持ってくるようになった。最近は子どもたちも豆をもらいに来なくなった。
一〇年程前までは、観音堂にお爺さんが住んでいて、いろいろと世話をやいてくれた。
観音堂を葬式の時に利用することはほとんどなく、お札なども出していない。

写真17 観音堂内観音像(宮内)

写真18 観音堂内 大師像(宮内)

阿弥陀堂は新田にあり、世話人は五人で、ここに墓を持っている家の中から選ばれ、長と会計がいる
維持費はここに墓を持っている家から一定額集め、東京などに行っていて何もできない人からは、少し多めに集める。
毎月三人ずつ墓を持っている人が、当番で掃除をしているが、お堂の中まで掃除をすることはない。
三月十日と四月十日の年二回、堂内に祀っている大師様の祭りとして豆イリ真言をやっている。これは、ここに墓を持つ人が二人ずつ当番となり、女性が中心となって、餅のあられを煎って持ち寄り、大師様の前で十三仏の念仏を唱えるものである。
ここでは、大師様を家々に廻すことはせず、堂に置いたままである。
皆が持っていったあられは、笊(ざる)に一緒にして混ぜ、茶碗に二杯位ずつ皆もらってくる。昔は子どもたちが来たが、今はほとんど来ない。あられは家に持って帰り、家族の者で食べる。
集まるのは昔からの農家が二〇〜二二軒ぐらいて、念仏のあと氏謡・カラオケなどで一時半ごろから四時半ごろまで、飲んだり食べたりして楽しむ。
当番は、昔は二回とも同じ当番がやったが、大変だというので一回ずつになった。三月の人はお堂をずっと使っていないので掃除などが大変だが、四月は一ヶ月しか経っていないので掃除も大したことはなく、それで同じ当番が二回ともやったらどうかという話も時には出るが、二回では大変だというので、結局そのままになっている。
祭りの費用については、当番がブドウ酒・豆腐・テンプラをあげて持って行ったり、野菜や芋の煮たものやきんぴらなどを作って持って行き、その費用は当番がみな持つので、特に費用としてお金などを集めることはない。

写真19 不動堂百万偏(山中)

もとは下の不動堂の大師様と一緒の大師様で、下と行ったり来たりで、こちらで三月の豆煎り真言を終わると同じ三月に下から借りに来、四月にこちらから借りに行き、という風にやっていた。しかし、下で大師様を作ったので別になり、今までの大師様はこちらに統いたままとなった。
山中の堂庵について『風土記稿』には不動堂一宇を載せ、「村民持」とある。これはそのまま続いてきており、現在も山中にある。
不動堂は役員が八人程いるが、ずっと同じ顔ぶれでやっている。
ここに墓を持つ家二五軒ほどが講員となって、七月二十八日に百万遍が行われている。百万遍の役員として年番が二軒あり、一年交代で全員が順にやる。仕事は会計と飲食物の注文、その他雑用の一切をやる。他に宿が一軒あり、これも一年交代で全員が順にやる。仕事はカッパ餅とテンプラを作って持ってくることである。カッパ餅というのは、うどん粉に少し塩を入れ、こねて手のひら位の大きさに伸ばし、ゆであげて黄粉(きなこ)をまぶしたもので、かんでいるうちに黄粉のあっさりした味がしてくる。しかし、子どもたちはあまり食べたがらないので、今は子どもたちには菓子袋をやっている。ただ宿に当たった者は、重箱一杯は作ってきて不動様にあげ、来た者はうまくもまずくも一枚ずつ食べることになっている。以前は堂に材料を持ち寄り、一斗五升もゆで上げたこともあったという。
百万遍の準備は、二〜三日前から灯籠はりをする位である。
当日は三時ごろから講員が集まりだすが、数珠を回すのは五時ごろからである。数珠は真中に子どもを入れ、鉦を叩かせて、それに合わせて「ナンマイダ」を唱えながら回す。数珠を回しながら、珠の大きいところがくると、首にかけるようにして、その年何もないようにと願う。十分ぐらいもするとやめてしまい、あとは七時位まで飲み食いで、八時ごろには終える。
百万遍の数珠の入っている箱の上蓋には、「享保十三、申九月吉日、奉建立百万篇講中、山中村」とある。葬式などに不動堂を使うことなどはなく、お札も出していない。

写真20 太子堂(古市場)

古市場の堂庵について『風土記稿』には二宇を載せ、太子堂には「如意寺の持」とあり、観音堂(如意寺境内)には「如意輪観音を安ず、下にのする所の常楽寺廃寺となりしゆへ、其本尊をここへ安ず」とある。しかし、『郡村誌』になると如意寺も、「明治六年三月廃寺となり本尊は地蔵堂へ移す」とあって、地蔵堂が現れ観音堂は見えなくなる。ただ、太子堂だけは変わらずに続いて今に至っている。地蔵堂は『明細帳』には載っているが、現在は見当らない。昭和三十年ごろ如意寺として建てた墓地の建物の以前にあった小さな小屋に仏像などがあったということから、あるいはこれが地蔵堂であったかもしれない。
太子堂の墓地は、以前は売買が自由だったので古市場以外の人もいたが、今は墓地を古市場以外の人に売ることを禁じているので、檀家の範囲はほとんど古市場のシモ(下)に限られており、約三〇軒程である。どうしても墓を売買したい時には世話人に話を通し、檀家を全員集めて承認を得なければならない。
世話人は、檀家の中から二軒ずつ順に年番になっている。
掃除などは堂場の人(堂守の人)がやってくれるので、盆前と彼岸前にいくらかのお礼をする。
昔は春彼岸のころ、米の団子を作って木の枝に挿し、太子様の前に飾ったという。

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