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第8章 信仰

第2節 堂庵

高尾の堂庵について
『風土記稿』には三宇を載せ、阿弥陀堂の条には、石戸宿の阿弥陀堂と同じ亀御前の伝承を載せて「此堂元は石戸宿村の内にあり、(中略)故ありて此に移せりと、されど今石戸宿村にも阿弥陀堂ありて、しかも此に似たる事実を縁起に載せたり、何れが是なることを弁ずべからず、阿弥陀は立像長一尺五寸なり、作は鳥仏師又運慶ともいへり、古色なり」とある。観音堂には「十一面観音なり、高尾山観音院妙音寺と号せどももとより堂にして本山等はなし」とあり、護摩堂には「不動を安置せり」とある。
『郡村誌』では護摩堂が見えなくなり、新たに地蔵堂と薬師堂が現われてくる。
現在高尾には阿弥陀堂、観音堂、薬師堂があるが、以下阿弥陀堂について述べる。

写真25 阿弥陀堂(高尾)

阿弥陀堂は、既に見た様に『風土記稿』の石戸宿阿弥陀堂の条に見える亀御前の伝承を持ち、七〇〇年位前に亀御前の霊を祀るために建てられた泉蔵院(現在の阿弥陀堂の東南にあったと伝えられる。明治六年四月廃寺となる。)の一部として、五〇〇〜六〇〇年前に建てられたといわれている。しかし、天明年間に一度火災で焼けたという。
境内の墓地はかってあった泉蔵院の墓地といい、昭和五十七年に山を一反歩崩して墓地を造成した。この造成地は昭和四年に既に墓地用に買われていたものである。
檀家範囲は、高尾全域で、他へ出て行ってもそのまま檀家になっている家も多い。檀家数は、昭和五十七年に新しい墓地を造成分譲するまでは二四〇戸位であったが、現住では増加して三五〇軒位になっている。ただし、昭和五十七年以降の新檀家は墓地の使用権を認められただけであり、正式な檀家ではない。
世話人は、昭和五十七年までは二名だけだったので、その中で役職は特になかった。しかし、昭和五十七年四月からは、檀家組織を充実させることになり、檀家二〇〜四〇軒に世話人一人を目安に、世話人を宮岡・河岸・烏の木・丸山・谷足・西高尾(以上大字高尾)・北本宿・荒井・吉見町の各地区から一名ずつ、計九名を選出し、世話人会を発足させた。そして、その中から会長一名、副会長一名、会計一名、監査二名の計五名を選んで堂の維持管理にあたることになった。世話人の任期は特にない。
会合も昭和五十九年まではいろいろとあったので、月一回の定例会を行っていたが、以後は定期的ではなく、何かあった時に集まるようにしている。
今までやった世話人の大きな仕事としては、新しく墓地を造成するに当たっての保健所との接衝、戦争に供出した釣鐘を新たに造るための富山県の業者との注文手続、庫裡の建替手続き、墓地間の通路の舗装などである。
檀家の総会は特になく、三年に一度会計報告のための総会がある位である。今まで行われた総会で大きかったのは、昭和四年墓地の裏山を墓地造成用に一反歩買う際と、昭和十七年法令が出て、堂庵はどこかの寺院の管理下に入らなければならなくなり、知事の認可を受けて常勝寺の管理を受けることになった際で、その他農地開放以前は、六町九反の田畑を持っていて小作料が入ったので、その会計報告を毎年行っていた。これらの総会は、檀家が全部集まるというのではなく、地区ごとに集まる持ち回り総会で行われることが多かった。
堂の掃除などは、昭和三十年ごろまでは堂守が堂に住んでいて掃除などしてくれていた。その堂守の死後はその子どもが通って掃除をしてくれていたが、昭和五十七年に世話人が二人から九人に増えると、世話人会の会長が盆や彼岸前に回覧板を回して檀家を集め、庫裡や境内の掃除をするようになった。墓の方は現在個人ごとに掃除してもらっている。
堂の行事といったものは特にない。ただ墓地にあるので、盆・彼岸には参る。
現在鐘楼にある釣鐘は新しいものであるが、戦争当時軍に供出した釣鐘は「宝暦十年」の銘のあるものであった。

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