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第8章 信仰

第2節 堂庵

荒井の堂奄について
『風土記稿』には六宇が載せられ、観音堂には「千手観音を安ず」、観音堂二宇には「一は馬頭観音を安ず、此堂を花見堂といへり、一は十一面観音なり、共に双徳寺の持」とあり、地蔵堂には「村民の持」とあるが、もう一つの地蔵堂と薬師堂には何の記載もない。
荒井村枝郷の北袋には観音堂と薬師堂が載せられ、観音堂には「正観音なり、地蔵院の持」、薬師堂には「同持」とある。

写真26 千手堂(荒井)

『郡村誌』になると、千手堂と花見堂の二宇を載せるのみで、他に「十一面堂跡」を載せている。
現在荒井には八カ所ほどの墓地に、何らかお堂、あるいは一寸したものを作っているが、以下では千手堂について述べてみる。
千手堂は普通観音堂といわれ、味噌観音で通っている。味噌観音と言われるのは、各家で自家用に味噌を作っていた頃、味噌の味が変わらないように、また変わった時にはもと通りにして下さいといって持って来てあけ、自然に直ると、お礼に直った味噌を持ってきて奉納したところからついた名である。
世話人は、須賀神社の総代がそのまま兼ねている。一応任期二年ということになっているが、交代の申し出があった時に新しい人を選ぶ。
新しく土地に入って来た人には、古い人が土地のしきたりを守ってやってくれるようにと話すので、諸費用を集める時にも問題は生じない。
掃除などは、昭和五十八年ごろまでは留守居の夫婦者が、堂の横のクラブと呼ばれている建物にいてやってくれていたが、その後は総代が七月初めごろ薬を撒いて除草をしている。
修理・改築などが必要な時は、世話人が先立ちで各組の人たちに下から話を広げていき、見積りをして、戸数割いくらと寄付をあおぐことになる。須賀神社の場合は、一〇世帯に一人の割で建設委員を作り、四〇人からの委員で総会を多く開き、うまくやることが出来た。観音様の場合も、その時は同様のいき方になるという。
賽銭は基本金の中に入れてしまう。須賀神社とは帳面が別になっているが、一括して会計係が管理している。
祭りは、昔は二月十七日だったが、戦後は一月十七日と八月十七日の二回となった。一月十七日には、お大師様(真福寺)の住職がきて護摩を焚くだけだが、戦前までは、牛馬がたくさんの鈴などをつけ、飾ってやって来て堂の周りを回った。牛馬には豆とお札を出した。
八月十七日の祭りは、今は午前十時ごろから護摩をたき、後は盆踊りなどを婦人会がやっている。昔は舞台を作って万作やゲンタ(醤油樽を叩いて八木節などをする)などもやった。今でも囃子を若い者が中心でやっている。
午年の御開帳の時には、昔は大きな角塔婆を堂の前に立て、紅白の布を塔婆に結び、それを観音様へ通した。この時には、バスなどでお参りに来る人も多くいて、世話人らがお茶の接待などをした。最近は来る者もいず、お茶も出さない。
祭りにかかった費用は、須賀神社の夏の祭礼(七月十四・十五日)が終わると、すぐに観音様の方も一緒に決算するが、観音様の八月の分は来年まわしとする。戦前までは人数割と戸数割を合わせてかかった費用を割ったが、戦後は戸数割だけとなった。
お札は、昔は牛馬をつれて来た人に豆と一緒に出していたが、今は出していない。版木だけは今もある。

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