北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第8章 信仰

第3節 家で祭る神仏

1 屋敷神

分 布
前記の調査で確認できた市内の屋敷神を祭るイエ(家)の総数は約七五〇戸であった。
この数は、明治九年の市域の総戸数一〇二九戸の約七〇パーセントに相当するが、過去百年間に若干の増加をみたようである。増加した理由の一つは分家による戸数の増加に伴う場合が考えられる。しかし、当市域では分家を出すとき必ず屋敷神を分祀するというようには考えていなかったようだ。かつてはイッケ=一族で屋敷神を祭ったらしい様子をいくつかの例(石戸宿・荒井・高尾・北中丸・北本宿)が示している。石戸宿横田の例では、本家だけが屋敷神を祭り、数百年たっても分家には現在でも屋敷神は無く、初午や嫁入りの時は本家のウジガミ様へお参りしたという。また、時代を遡るほど、分家するさいには潰れ屋敷に入りその屋敷の神を引き続き祭る例が多いのである。ただし、戦後、本家から社会的・経済的に自立した分家が、一つの家格の象徴ともみられる屋敷神を祭るようになった例は少なくなさそうだ。
昭和三年北本宿駅(現在のJR北本駅・東口)の営業が開始され、次第に周辺に商店ができてくると、そのような家のなかには商売繁盛を願って屋敷神を祭る家もあった。日華事変から太平洋戦争にかけて不安な世相が続く時代に「千社参り」が盛んになり、新たに祭りはじめた家もあったらしい。「札を貼らせてくれって来るたびに、ウジガミ様がないというのはどうもおかしいので」という理由であった。身内に病気がちな人が出たとき、祈禱師にみてもらい、その勧めで祭った神を屋敷神とした例もある。

写真27 稲荷社(北中丸)

減った理由としては、戦後市内にも急速に信者を得たある新興宗教への入信にともない破棄された埸合、社が風雨で自然に朽ちはててしまいそのまま忘れられてしまった場合などがあるようだ
正確な数は示せないが、明治の初期に比べおよそ一割前後の増加であろうか。
分布状態は、人口の増加が停滞していた昭和二十年ころまでの村落の分布状態とほぼ一致する。明治九年当時の旧村ごとに比較するとき、各村の分布に粗密の差は小さい。やや注目されるのは、石戸宿と今日の西高尾・中央・本町であろうか。前者は市内で唯一、近世に街村を成していたため町割りにしたがって人家が建ち並び、屋敷神の分布は密である。逆に、後者は近年まで広大な山林原野として残されていたため、ほとんど人家は無く屋敷神の分布は極めてうすい。
ところで、一軒の家で、二つ以上の神を屋敷神の祭神として祭る家が、七五〇戸中の約四分の一ある。したがって、市内で屋敷神の祭神として祭られている神々の総数は九六六になる。多くは二つの神を祭る場合で、一つの神屋に二つの神を祭っている(一社相殿)場合が多い。それ等の神々には、特定の組み合わせは無いようで、稲荷とその他の何らかの神、となっている場合が多い。相互の神の序列も意識されていない。二つ以上祭るようになった理由は、分家または本家の潰れ屋敷のウジガミ様を引き取った、他家の土地を購入したさいその土地に祭られていたものを引き取った、等々である。
神々の総数九六六の主なものは稲荷・八幡・弁財天・荒神・神明・若宮八幡である。
「稲荷」は、前記のように市域全体に普遍的に分布する。神々の三分の二は稲荷である。
しかし、稲荷である根拠があいまいなものも多い。「以前は(神屋の中に)何も無かったので鴻巣の荒物屋でオトカを買ってきていれた。」「八幡神」の神屋内に陶製の狐が入っている例もある。
「八幡神」を屋敷神としてまつる家は稲荷についで多く全体の六分の一に達する。分布状態は稲荷同様市内に普遍的である。やや特徴的なのは荒井の馬場地区で、ここでは「福島姓は、八幡様を祭るものだ。」と言いほとんどが八幡神である。稲荷と八幡神を同時に祭る例が約四〇あるが、特に理由はないようだ。
「弁財天」は、台地東縁に花ノ木・常光別所・古市場・宮内・深井と点々と分布する。水との関係はなさそうで、昭和に入り十年位までの間に、家内に病弱な者が出たりしたとき、祈麟師の勧めで祭るようになった場合がほとんどである。台地の西縁(石戸宿・荒井・高尾)にも分布するが、特徴はつかみ得ない。
「荒神」を屋敷神として祭る家は市内に二四あるが、その内一六は石戸宿に集中する。紀年銘の明らかなものは少ないが、天明年間一、寛政年間一、文化年間二、文政年間一、嘉永年間一と、幕末の六〇年間に祭られたものが多かったようだ。修験者の活躍あるいは流行神的意味があったのかもしれない。
「ウジガミ」を祭る家は五・六パーセントで、比較的北中丸・石戸宿・下石戸上に多い。
「天神」は、県内で第二位の多数(屋敷神は除く)が祭られている神である。そのうち北足立郡は二百余社で全県の四分の一を占める濃密地域である。北本市内では「新篇武蔵風土記稿」に四社みられるが、屋敷神としては一〇社しかない。
表3 祭神別屋敷神数
No.1234567891011121314  
地区名北中丸花の木常光別所山中古市場本宿東間宮内深井石戸宿下石戸上下石戸下高尾荒井合計

B/A×100
明治9年戸数127123213264455605914580791851111,029
屋 敷 神
所在確認数
75729121937484549102576111594A
750
ウジガミ62221322366133B  425.6
稲  荷4241261225382634433535725844258.9
八  幡1317234314717813161512316.4
若宮八幡3121123221182.4
弁 財 天325242372244405.3
荒  神111116121243.2
神  明1111314135212.8
天  神2111221101.3
金 毘 羅311270.9
諏  訪111111170.9
雷  電221160.8
第 六 天111250.7
浅  間1211160.8
権  現312321121.6
三  峰1121381.1
宝 登 山122160.8
秋  葉11240.5
白  山111140.5
愛  宕1230.4
氷  川1111351131.7
※その他211332146447385.1
祭神不明18524412123471316912716.9
延祭神数9712441327445755641438082133115966
以上は、市内の屋敷神として祭られる神々の分布状況であるが、これを全県的に見るとどのような特徴があるのだろうか。「埼玉県民俗地図」(昭和五十三年、埼玉県教育委員会・埼玉県文化財保護協会)によれば、北本市は埼玉県のほぼ東半分の地域同様に屋敷神が主として稲荷である「稲荷系」の地域に属している。そして、同「地図」は、西半分に分布する「氏神系」の東端は「比企丘陵東端の吉見町下砂あたりとみられる。」としている。北本市の場合、特定の祭神を持たず単に「ウジガミ」という事例は四十二戸、五・六パーセントあり、かってお仮屋を年毎に設けた様子も数例うかがえる。これを合わせ考えると、北本市は「かつての氏神系祭祀圏の面影を残す、稲荷系祭祀圏」ということになろうか。

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