北本市史 民俗編 民俗編一覧
第8章 信仰
第3節 家で祭る神仏
2 屋内神
事 例まず、一軒の家が神々を祭る様子を慨括的に述べてみる。なお、部屋の呼び方は家により樣々だが、説明の便宜上、下石戸下の伊藤明家の屋内神の図解に示した呼弥に統一した。これらは市域においては、比較的普遍的な呼称といって良いと思う。
ザシキにダイジングウ(伊勢皇大神宫)・トシガミ(年神)。オカツテにエビス(恵比寿)。かまど(竈)にコウジン(荒神)。ダイドコロ(土間部分)の下大黒柱の下にタワラガミ(依神)。井戸にイドガミ(井戸神)。便所にセッチンガミ(便所神)。屋敷の、多くは北西の隅にウジガミ(氏神・屋敷神)が祭られている。以上が、一般的な家で祭られる代表的な神々である。十四日の小正月には、これらの神々にはマユダマダンゴ(繭玉団子)が供えられる。
この他、様々な神、そして仏が祭られている。ヘヤに、ヘヤガミサマ(寝床神様とも言う)が祭られていた家があるが、今日では、場所も床の問に移されたりして、祭る主旨はまったくわからなくなっている。床の間には天照皇大神宮の掛け軸を掛けている家が多い。母屋内に馬小屋があった昭和十年前後までは、観音様の絵馬を掛けた。表の入口や蔵には、火難除けの秋葉様(大宮市日進)、盗賊除けの宝登山(秩父郡長施町)などのお札が貼られた。
年神様は、ザシキの天井から棚を吊るして祭った。二本の幣を立てる。その年の神をエホウ(恵方)に向け、旧年の歳神をオミタミ様と呼びその反対側に向けて立てるのだと言う(高尾)。荒神様には五本の幣を立てる場合が多い。荒神様はオカマサマ(御竈様)ともいわれカマド(竈)の神様だという。また作神としての性格もみられ、田植えが終わると余り苗を持って来て、ポタモチと一緒にあげて拝んだ(高尾)。その他の神の幣は一本である。なお、幣には、白紙のものの他、赤色(疱瘡除け)・五色・金色のもの、また大形(約三〇〜六〇センチ)のものがあるが、全市域を通じて数は極めて少ない。シメ(八丁注連)は、荒神様と屋敷神様にはり、年神や大神宮にはいわゆるゴボウジメをはる。
飾り付けは二十八日か三十日に行われる。一夜飾りは避けられる。年神の棚を作ったり、シメ縄の縄をなったりする準備と飾り付けは、かつては主人や長男の仕事であったが、今日では崩れている。
以後、具体的な事例を示していく。概括的には同じであるが、細部の具体的な祭りかたは家々によって異なる場合が多々あることを承知しておいて欲しい。
①伊藤明家(下石戸下)。下石戸の氷川神社と八雲神社の氏子である。
十二月の半ばになると、「十八日の午前中に幣束がきますから」と、言い継ぎのフレ(触れ)がでる。これは、下石戸下原地区の社総代(一人。任期三年)から年番(四人。任期一年)を通じて出され、高尾の氷川社の神官が出向いている地区の公会堂に集まるのである。かつては下石戸上の小古瀬氏に力マジメを切ってもらっていた。いただきに行く人は、一家の主人、または年男と決まっていたが、現在では都合のつく人がいく。年の内に飾るが、一夜飾りはさける。
表6 家で祭る神仏一覧(伊藤明家 下石戸下)
祭られる場所 | 神仏名 | 幣 | 八丁ジメ | ゴボウジメ | お供え餅 | お棚と皿 | マユダマ | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ザシキ、神棚 | 伊勢皇大神宮 | 1 | 0 | 1 | 1 | 各 1 | 1 | |
ザシキ、吊棚 | 祭神 | 2 | 0 | 1 | 大 2 | 〃 2 | 大 2 | お棚は大。現在は床の間へ |
デエ、床の間 | 氷川、八雲社など | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | |
デエ、仏壇 | 仏 | 0 | 0 | 1 | 1 | 〃 0 | 1 | |
ヘヤ | ヘイヤ神 | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | |
カッテ | エビス、ダイコク | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | 全部で七体ある。 |
イロリ | 荒神 | 5 | 1 | 0 | 1 | 〃 1 | 1 | |
下大黒柱 | (不明) | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | 現在は床の間へ。 |
シモトブ近辺 | 俵神 | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | 現在はカッテへ。 |
コブクチ | (なし) | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 「門守」を戸の内側にはる。 |
馬小屋 | 観世音菩薩 | 1 | 0 | 1 | 1 | 各 1 | 1 | |
井戸 | 井戸神 | 1 | 0 | 1 | 1 | 〃 1 | 1 | |
セッチングラ | セッチン神 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 現在は祭らず。 |
屋敷の北西 | 屋敷神 | 1 | 1 | 0 | 1 | 各 1 | 1 | |
屋敷の北東 | 屋敷神 | 4 | 1 | 0 | 4 | 〃 4 | 1 | |
計 | 21 | 3 | 11 | 大2、15 | 16 | 大2、12 |
デイの床の間には、氷川様と天王様(八雲神社)のお札、その他いろいろな講のお札もまとめて上げてある。かつて、古いお札は板に貼ってタナギに上げておいた。ザシキには東向きに神棚があり、伊勢皇大神宮のお札を納める。年神様は二体である。年神様の棚は天井の真ん中から吊るした。年神様には大きなお棚をつくり、大きなお供え餅、大きな繭玉団子(十四日に作り、飾る。平年には十二個、閏歳には十三個の団子を木につける。)をあげた。さらに、年神様には、大晦日の晩、直径三センチくらいの大きさに握った握り飯を十二個(閏年には十三個)重箱に入れてあげた。箸は一束くらいそえた。
図7 家で祭る神仏の位置(伊藤明家 下石戸下)
オカツテには、エビスとタイコク合わせて七体祭られていた。エビスは茶だんすの上に置いてあり、エビス様は稼ぎもんだから高い所には置かないものだという。
ダイドコロのイロリ、または釜場といったが、そこには荒神様。シモデエコク(下大黒柱)の下にもお棚を作り神を祭った。トブグチとシモトブの間の壁際には日常の食用の米俵を積んでおいたが、正月にはここに俵神様を祭った。馬小屋には、観音様の絵馬が飾られた。馬を大事にした伊藤家では、かつて、正月十七日は荒井のミソ観音、十八日は鴻巣市馬室の観音、十九日は東松山市上岡の観音と、それぞれの縁日に馬を連れてまわったものであるという。トブグチには、宝登山(盗賊除け)板倉雷田(火伏せ)などのお札が貼ってあった。トブグチのオード(大戸)には、カマジメのとき受けた御守り(門守)が貼り着けてあった。
井戸には、井戸神様。セッチングラ(便所)に、セッチンカミサマ ウジガミサマは北西隅と北東隅に二か所ある。北東隅のウジガミサマには、幣束を四本あげる。何かのいきさつで、他家の氏神様を引き継いだためである。
仏様には、幣は上げなかったが、ゴボウジメ一本、お供え餅、繭玉団子一本をあげた。毎日のお供えはしなかったが、お茶とお水は毎日、一年中変わらず上げた。なお、十六日は地蔵様の日で、お燈明をあげ、ささげ(豆)の入ったジオウメシを炊いてあげた。
お祓は二本一組で配られ、ミソカッパライは、大晦日の晩にお祓いをしたあと、屋敷の西南の一番隅にさした。ケードに刺すものではない、といわれてきた。もう一本は、神棚に上げて暮れまでとっておいた。
おタナの上の小皿には、大根・にんじん・菜・里芋などが少しずつ供えられる。三か日は三度毎、四日・五日・七日・十一日・十五日は朝と晩。小皿の大根やにんじんは、そのつど下げられることなく、新しいものが十五日までつけ加えられていく。
以上の伊藤家で祭る神仏を合計すると、神々の数二十七、仏二である。しかし、主屋は昭和四十六年に建て直され、ダイドコロ部分には床が張られ、馬小屋はもちろん下大黒・俵神様を祭る場所がなくなり、幣束などは床の間に移され簡略化されている。現在(昭和六十二年)、カマジメでいただく数は、大麻一、幣一六、シメ三、門守一、祓一組である。表5を参照のこと。
十六日には片付けをする。幣・シメ・おタナ・繭玉団子の枝などを集め庭で燃した。燃す場所は特に決まってないが、灰はデエの前の植え込みである坪の間においた。なお、繭玉の団子は食べてしまうが、おタナに供えた大根や菜は捨ててしまった。
以上で正月行事は終わるが、前年に葬式を出し、ブクが付くとこのような行事はいっさいやらない。また、夏祭りなどにも参加しない。これは、周りの人たちも認めていることである。
②新井敬二家(高尾)。高尾氷川神社の氏子である。河岸地区の家では、幣などは個人でとりに行く。特に日は決まっていないが、二十九日か三十日になる。このころ、タナ(棚)作りもする。荒神様と俵神様の棚は、ヨシを四角(約二〇×二〇センチ)に編んで作った。縄は新藁を使い、手で編んだものを使う。年神様の棚は、デイの天井から吊るした。竹を二本吊るしその上に約二五×四〇センチにヨシで編んだ棚を載せた。カマジメをもらいに行ったり、棚を作るのは一切が主人の仕事であった。なお、一夜飾りはいけない、と言われてきた。
デイには年神様が祭られた。幣一本、お供え餅一組、毎日のお供え物用の小皿一個。年による方位は気にしなかった。床の間には、天照皇大神宮の掛け軸があった。ザシキには神棚が南向きに作られていて、幣六本、お供え餅六組、小皿六枚がそなえられていた。伊勢皇大神宮の他には、比企郡嵐山町の鬼神神社と榛名山等の神が祭られていたらしい。六枚の皿には、正月一日から六日まで、供えものを下げることなく足していき、七日の七草粥に入れて食べた。これを食べると一年間、無病息災であるという。盆棚がこの部屋の南西の隅に東向きに作られた。ヘヤにはヘヤ神様が祭られ、幣が一本立てられた。今日でも、物日にはお供え物をするが、どのような神様かはわからない。オカッテザシキには仏壇があり、幣が一本。食事をするオカッテには恵比寿様、何体もあったが幣は一本。竈にはオカマサマ、幣一本、シメ ー本。ダイドコロの隅には俵神様、幣一本。旧馬小屋は、一切なし。便所にはセッチンサマ、幣一本。屋敷神の稲荷様・若宮八幡様に、幣が各一本。裏山の欅の大木にシメ一本。ケードに馬頭観音(明治時代)、シメ一本。以上幣一五本、シメ三本。昭和十年ころまでは十四日まで飾ったが、戦後は七草(七日)には終わりにした。なお、十四日には、これらの神々にマユダマ(繭玉団子)をあげる。
シメは一年間飾ったが、幣は全部、庭の隅できれいな火で燃した。ミソカッパライは、うちの中の仕切りのある所すべてをていねいにやった。お祓いが終わったら神棚に上げておき十四日か七日に燃した。もう一本のお祓は始めからカイドウとオウカンの境にさした。
プクがかかると、カマジメの行事はやらない。神棚に真っ白な半紙を貼った。
③小川春信家(山中)。中丸氷川神社の氏子である。十二月の中旬、特に日は決まっていない。桶川市加納の天神社の神官が、カマジメを持って中丸の氷川様へ出向いてくる。氷川様で、地区役員が地区の家のもの全部を受けとり、各家庭に配ってくれる。山中地区は、かつては桶川市川田谷の先達からカマジメを受けていた。現在、大麻一枚、幣二〇本、シメ三本、祓二本、オオバライ(大祓)のお札一枚を受けているお守はない。
カマジメを飾る準備として、オタナヅクリ(御棚作り)をする。オタナはヨシで作った一二×七センチくらいの大きさで、ここにお供え物を入れる小皿を戰せる。いわばお膳である。また、正月十四日には、マユダマ(繭玉。繭玉団子のこと。)をあげる。
デイには、年神様、幣二本、棚二、繭玉二本。その他、幣四本、棚二。「おおばらい」のお札を床の間に置く。仏様に、お棚を作りお供えものはするが、幣は無し。ザシキには、神仏なし。ヘヤには、ヘヤカミサマ、幣は無し、棚一、お供えものだけは現在もしている。簞笥(高さ一メートル余)の上に祭る。どういう神様だか解らない。オカッテには、伊勢皇大神宮、幣二本、棚二、繭玉二。北側の鴨居に棚が作ってあり、エビス、幣一本、棚一、繭玉一本。ダイドコロには、荒神様、幣六本(大根の台に一本、鴨居の竹筒に五本)シメ一本、棚一、繭玉一本。荒神様は竈の神様である。場所は特に決まっていないが、土間に臼を置き、その上に俵を載せ作神様を祭る。作神様と一緒に井戸神様、便所(チョウズバ)神様も祭る。幣三本、棚三、繭玉三本。便所神様は、かつては、チョウズバ(便所)に飾ったらしい。氏神様は元二社(北西と南西の位置)であったが、現在北西に合わせた。幣一本、シメー本。
オタナの小皿に供えたものは、いちいち下げないで、毎日、十四日まで足していく。十四日に作った繭玉団子な一緒に十五日に下げる。小皿を洗った水を家の周りに切れ目のないようにまく。これは、厄病などを除けるためだろうという。オタナは人の足の行かない所で燃す。シメは、一年間そのままにしておくが、幣は氏神・荒神様の六本を除いて、十五日に燃す。うち中のミソカッパライが終わったら、そのお祓は屋敷の出口の角にさす。もうー本のオハライは、毎朝お供えするとき自分をきよめるために使う。祓も十五日に燃す。
今年、ブクがかかると、来年の正月のカマジメは受けない。入り只 大神宮、エビス、床の間に半紙を貼る。