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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

宮 内
宮内の神社は、『風土記稿』によると氷川社・稲荷社・諏訪社の三社があり、氷川社は「下分にあり、祭神は素蓋嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とみゆれど その来由は詳に知れず」「別当 大乗院 当山修駿 小松原瀧本坊の配下」とある。この「小松原瀧本坊」というのは東間浅間神社の宮司の所に出てきた瀧本院のことを指すものと思われる。
『神社』では、氷川神社の沿革として「『山緒調書』によれば、人皇一二代景行天皇の御宇、日本武尊が東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、その跡に大宮氷川の大神を勧請して当社を建立したと説く。宮内の地名はここに始まるともいわれ、云々」、「文政十年(一八二七)には、その由緒の古さを認められ、神祇管領長上家より『武蔵国三の宮』の称号を贈られたことが、近年発見された同神社所蔵文書によって明らかにされる」としている。
氷川社の境内社は『風土記稿』によると「稲荷社、簸ノ王子社、弁天社」とあり、『郡村誌』には「村社中にあり」として天神社だけが新たに載せられている。しかし『風土記稿』の境内社は、『郡村誌』には載せられていないが、そのまま続いて来たものと思われ、『明細帳』には、天神社も含めて全て記載されている。ただ、弁天社が厳島社と名を変えており、このことは『明細書』の神社の配置略図で、今の弁天社の所が厳島となっていることからも分かる。これが『明細帳』では厳島神社だけとなっている。
現在の境内社は、天神社と弁天社・山王社である。天神社については、昭和二十七年ころ、信心深いお婆さんの夢枕に天神様が立って、出してくれと言ったため探してみると、神庫の中にお姿がほうり込まれてあったので、出して今の場所に社殿を作って祀った。それまでは上グルワでは、十五日か二十五日によく火事があったが、天神様をお祀りしてからはその火事もなくなったという話が伝えられている。山王社については、個人の持物だったのを今の所に持っていって合社したといい、昔はお産が楽にと祈願して石の猿を納める人もあったという。
氷川社以外に『風土記稿』に<せられている稲荷社・諏訪社は「村民持」とだけあり、そのまま明治まで来て、明治四十年氷川社に合祀されている。
さて、氷川神社の祭神は素蓋嗚尊(すさのおのみこと)であるが、現在合祀されている神社の祭神として、保食命(うけもちのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)・菊理姫命(くくりひめのみこと)・倉稲魂命(うかのみかたのみこと)・菅原道真公・神功皇后・面足命(おもたるのみこと)・惶根命(かしこねのみこと)も共に祀られている。地域の人は氷川様と呼んでいる。
氏子範囲は、宮内・深井・常光別所・花の木で、それぞれから氏子総代が出、もとは一五名であったが、四〜五年前から新しく入ってきた家、分家した家などが宮内二〜三丁目に多くなり、それまでは七五三などにお参りに来ることはあっても、氏子にはなっていなかったが、氏子総代を出すようになり、二人程増えている。総代の中から総代長と会計が選ばれる。任期は四年で、四年経っと全員交代する。留任をさまたげないということになってはいるが、大体みな代わってしまう。

図2 境内略図 氷川神社(宮内)

総代が集まって一年一回慰安旅行をしたことなどもあったが、今の総代はみな働き盛りの人なので、そうしたこともなくなった。
十二月のミソカッパライの時に、総代が集まりそこで会計報告をする。
総代の選出は、地域の寄りごとの時に総代を誰にしたらよいかということで、何となく決まり、代表が出てお願いに行き、引き受けてもらう。
例祭の年番は宮内の四組(上・下・神外・新田)の交代で、それに深井・常光別所・花の木から二人ずつ手伝いに来る。この他に幟(のぼり)立てというのが同じく組ごとの順番になっており、一月一日、四月十五日、十月十五日の祭に幟を立てる。
新入者が氏子となるにあたっては、特別な手続きといったものはない。
普段の掃除などは、総代が一寸集まってやったりしている。
神社の経費は、境内の一部を駐車場とし、社務所を新しくして使用料をとることとし、それらを合わせてやっている。
祭の費用は、一軒ずつ祭代を集めてそれでまかなう。賽銭(さいせん)も一月一日には大分あがるが、神社費用に使う。
神社の修理などの必要が生じた時には、氏子に寄付を仰ぐことになる。今の社務所を新築した時も寄付を仰いで資金を集めた。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭、三月・春の入学祈願、四月十五日・春日待、六月末・六月祓(はらい)、十月十五日・例祭、十一月末・新嘗祭(にいなめさい)、十二月二十九日・ミソカッパライ
元旦祭(一月一日) 十二月三十一日に弁天社の周りに納められていたダルマ類を燃やす。夜になると総代は布団持ち込みで、除夜の鐘がなるころからずっと詰めている。境内では焚火をする。
元旦になると、神主が来て祈禱をしてくれる。家内安全のお札や破魔矢などを売る。またこの時、交通安全の祈願をする。それぞれ免許証を持っている者からお札の注文をとるが、昭和六十三年には二八〇名程いた。
春の入学祈願(三月) 三月の適当な日を選んで新入学児童の祈願を行う。
春日待(四月十五日) もとは春と秋の二回あったが、費用などの関係で戦後春だけになった。各家々では、餅などを搗いて近所に配ったりした。
今は総代が寄り、神主が来て御祈禱するだけである。お札は、総代が一軒ずつ配る。
六月祓(六月末) 総代が寄り、神主に御祈禱してもらう。
例祭(十月十五日) 五年位前から祭の二日位前に、上と神外の第一老人クラブが二五〜六名いるので、奉仕で掃除などをしてくれる。それまでは、掃除などは総代が出てやっていた。
祭当日は、朝四時半に花火があがり、舞子連が囃子(はやし)を鳴らし始める。
例祭の年番が当日の朝早く、余興のための舞台を神楽殿の前にかける。余興は業者に頼んでいるが、他に婦人会の踊りや地域の者が飛び入りでやったりする。
花が社務所、年番、消防、舞子連にかかるので、それぞれ受付が出来る。この時集まった花代は、それぞれで飲食などに消費してしまう。夜になると、夜花火があがる。花火は他に知らせとして、午前一〇時と祈禱の始まる午後二時半にあげる。
新嘗祭(十一月末) 総代が集まり、神主が来て御祈禱してくれる。
ミソカッパライ(十二月二十九日) 神社を掃除して、新年のための飾り付けをする。総代が集まり、神主に来てもらって御祈禱がある。
これらの行事の他に、毎月一日・十五日には、固い人は月参りをする。

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