北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

北本宿
北本宿の神社は、『風土記稿』によると天神社一社で、「多聞寺持」とあるのみで、特に由緒も載せていないが、『神社』には、岡野家に伝わる『神社由緒書』から「寛文二年(一六六二)当時ノ領主三上筑前守敬神ノ念篤ク特二京師北野天神ヲ崇敬セリ、依テ当地ノ領主タルニ当り当地ノ風致ヲ採り領地アリ五穀豊穣ノ祈願トシテ・・・・」と引用したのち、「この本宿村の領主三上筑前守は、文政年間(一八一八〜一八二四)の領主で、年代にずれがあり、その実際の沿革は不明である」としている。
境内社は、『郡村誌』には「稲荷社」、『明細帳』には「稲荷社 御岳社」とあり、『明細書』には「境内神社 無」とあるが現在は大口社(御岳社)、宝登山社、稲荷社、弁天社の四社となっている。このうち弁天社は稲荷社と合祀していたのを、昭和五十年代に小祠を作って分けたという。
さて、天神社の祭神は菅原道真公で、地域の人は天神様、氏神様と呼んでいる。
境内社の大口社と宝登山社には、それぞれ講がある。代参講となっていて、前者は御岳講という。代参者はクジで決められ、両方共四月中に行って来る。大口社と宝登山社の中にはお札が納められており、代参の者が頂いて来ていた。しかし、昭和五十年代半ば頃から講自体ではそのお札を頂いては来なくなり、天神社の氏子総代一名が講に付き添って行き、社に納めるお札を頂いて来るようになった。お札は、古いものを社から出して持って行き、お金をつけて本社の社務所に渡し、新しいものと取り替えてもらう。
これら境内社の祭は特に行われておらず、天神社の祭の時に一緒に祭るくらいのものである。

図3 境内略図 天神社(北本宿)

神官は、高尾の氷川神社の神主が来ていたが、昭和六十年から社格が上がったため、二月二十五日の初天神と七月二十五日の夏の大祭には、神社庁からも神主が来て祭りをすることになった。
氏子範囲は、昭和二十年頃までは、本宿五〇〜六〇軒であったが、戦後人口が増えていき、現在は本宿一〜四丁目、本宿七〜八丁目、北本一〜四丁目、中央一〜四丁目、緑一〜二丁目、東五丁目にわたり、その氏子数は約二千軒である。
氏子総会のようなものはなく、氏子から何か提案のある時には、氏子総代に話し、その氏子総代が一月、二月、三月、七月にもたれる総代の集まりの時に話を出し、総代たち皆で話し合いをすることになる。
新しい人が氏子入りをする時も、特別な手続きなどはなく、各地区の区長に申し出ればよいことになっている。
氏子総代は、前述の一七地区の内から本宿四名、北本四名、中央二名、緑・東一名の計十一名が出ている。将来的には、一地区一名宛出ることになろうという。
氏子総代に任期はなく、選出方法は区長から推選をうけて選ばれる。総代の中より総代長と会計が選ばれる。監査は総代の決議によって全一七地区より二名選ばれ、特に任期は決められていない。
氏子総代の仕事は、天神社の祭の準備、社の修理、賽銭・祭礼費の管理、祭以外の成人式、敬老の日の贈り物の取扱いなどである。
監査の仕事は、総代が使った賽銭の使途、祭礼費の使途などの金銭の収入・支出を監査することで、年二回、一月二十五日と七月二十五日に氏子総代と区長が集まった時に報告を行い、区長らの了解を得る。
総代・区長らの集まるのは、一月二十五日・二月二十五日・三月二十五日・七月二十五日で、このうち二月・三月・七月は祭礼の日で、直会がてら話し合いを行ったりする。
総代・監査の他に、地区を本宿、北本、中央、緑、東の四つに分け、それらの中から輪番制で、祭典委員長(正・副)・副委員長(正・副)・会計(正・副)の計六名が出て(選出方法は各地区が決めている)、正月や祭の手伝いにあたっている。たとえば、今年本宿から正の委員長・副委員長・会計を出したとすると、去年正をやった緑・東の委員長・副委員長・会計が副となる。従って、来年は本宿の委員長・副委員長・会計が副となるというふうになっている。
これらの他に、各地区ごと四名ずつ十七地区で六八名の祭典委員が出て、天神社の正月や祭の手伝いにあたることになっている。祭典委員には正(二名)と副(二名)とがあり、正を勤めた者は翌年の副を勤めることになっている。輪番制にするかどうかは、各地区ごとまちまちである。
つまり、天神社では氏子総代十一名、祭典委員長他六名、祭典委員六八名がいて、正月や祭などの手伝いにあたっており、これらの役は全て無報酬である。
日常の管理などは、昭和三十六年から留守居がいるようになったので、清掃・草取りなどもみなやってくれることになっている。
賽銭の使途としては、敬老の日に氏子中で七〇歳以上になる老人を対象に、記念品(草履・靴下・腹巻など)を購入し、各地区に配ってもらうことに使ったり、成人の日に氏子中で二〇歳になった成人に記念品(アルバムなど)を購入し、各地区長に配ってもらうことに使ったりするが、この二つは神社で行う行事というのではない。他に新入学児童祈願祭のために記念品(鉛筆やお守り)を購入する時にも使う。これらの他、神社の修理・改築費などにも使う。現在ある社務所や境内の石畳は全て賽銭のみでまかなった。最も盛大な夏の大祭には相当の経費がかかるが、各地区ごとに集められる祭礼費と賽銭とでまかなわれる。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦、 二月二十五日・初天神、三月二十五日・春祈禱及び新入学児童祈願祭、六月三十日・大祓、七月二十四〜二十六日・夏の大祭、十二月二十五日・大祓
元旦(一月一日)大晦日から正月四日まで、氏子総代全員で参詣者に御神酒をふるまったり、お札・弓破魔を売ったりする。また二名ずつで白装束をつけ、参詣者のお祓いをしたりする。氏子総代だけでは手が足りないので、女子二名をアルバイトで雇っている。祭典委員の人にも警備にあたってもらっている。正月には神主は来ない。
初天神(二月二十五日) この日は菅原道真公の生まれた日であり、また亡くなった日でもあるといわれている。この日は神社庁からも神主が来て、祓い・祝詞奏上などの儀式が一通り終わると、氏子総代・各区長らによる直会が行われる。各区長は、それぞれの地区の子供らの書いた書初めを集めて持参し、翌二十六日と二十七日と社務所に飾って一般に公開している。
春祈祷及び新入学児童祈願祭(三月二十五日) 現在は騎西町の明神様(玉敷神社)から祭典委員がオシシ様を朝早く借りに行き、戻って来て神前に飾っておく。神主によるお祓いの後、出席した氏子総代・区長らによる直会を終えて、夕方にはオシシ様を返しに行く。
昭和二十五年頃までの春祈祷は、早朝オシシ様を借りて来て、お祓いなどを済ませると、悪い病気が村に入って来ないように、氏子の無病息災を祈ってオシシ様を担いで行列を成して各戸を回った。行列は、天狗の面をかぶった猿田彦を先頭に、オシシ様を入れた箱を棒に通して担ぐ者、賽銭箱を持つ者、村はずれに立てる竹の棒を持つ者、神主などが続いた。賽銭箱も明神様からオシシ様と一緒に借りて来たもので、鍵がかかっていた。
各戸を回り終ると、藁で出来た笠のようなものと幣束のついた竹の棒を、今の南署の東側、二股の道のところに立てた。
新入学児童祈願祭は、小学校一年に入る新入学児童の交通安全祈願をするもので、子どもと親を全員神社に集めて神主にお祓いをしてもらう。
大祓い(六月三十日・十二月二十五日) 神主が来て、御祈祷してくれるだけである。
夏の大祭(七月二十四・二十五・二十六日) 夏の灯籠(とうろう)とも呼ばれ、二十四日には昭和三十年ころより各地区ごとに購入されるようになった御輿(みこし)が境内に集結して、神主による御魂入れの式が行われる。終わると、御輿は各地区の神酒所に置かれ、各地区ごとに御輿が回される。
二十五日も各地区ごとに御輿が回され、一方神社境内では、花火・囃子・余興(のど自慢・演芸など)が行われる。
二十六日は、朝再び境内に神輿が集結し、御魂抜きの式が行われ、御輿を納めて祭は終了する。
天神様の御利益としては、学問の神様といわれ、昭和五十七年ころから湯島天神にならって絵馬も売るようになった。
お札類は、以前は神主の持ってきたものを扱っていたが、昭和五十七年ころから総代らが印刷などを業者に頼んで直接取り扱っている。お札を出すのは、三月の春祈祷、六月と十二月の大祓い、七月の夏の大祭で、三月にこれらお札の注文を祭典委員がまとめて取り、これらの祭の後、祭典委員が各戸に配る。

<< 前のページに戻る