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第9章 年中行事

2 暦法の変化

明治五年十一月九日の改暦の布告により、明治六年から新暦が採用されたが、官公署、学校関係など公的なところを除くと、一朝一夕には改まらなかった。旧暦から月遅れ、そしてさらに新暦へと次第に移行してはいったが、その時期は地域社会の実情によって異なっている。
北本市内では、すでに旧暦を使用した経験者は現存せず、市内でいつまで旧暦が行われたかははっきりしない。戦前は正月を旧暦でやっていた、などと旧暦ということばは普通に聞かれるが、確認してみるとこの旧暦というのは、いわゆる月遅れのことである。
役場や学校などでは、すでに明治時代から新暦で正月を祝うことが行われていたが、農村の家々では戦後昭和三十年ころまで月遅れを基準とし、十五夜、十三夜など月齢に従って行う行事だけが旧暦によって行われてきた。その後、正月行事を中心に新暦に移行し、盆行事は今でも月遅れで行われている。
なぜ、諸行事が長らく月遅れで行われてきたのだろうか。月遅れで行われていた年中行事が、正月行事を中心に新暦に移行したのは、いつごろどういう理由に基づくのであろうか。
石戸宿では戦争中までは、二月に正月を祝っていた。山の木を集めて煮炊きに使っていたが、その山の木を集める作業を一月にやっていたので、十二月から一月は忙しかったからである。昭和三十年ころまで二月正月だったという家も多い。十一月半ばまでは麦播きなどで忙しく、十二月から一月は山の整理で忙しかった。元の農事試験場の所に山があり、落ち葉かきや薪作りに追われたという。
下石戸上や下石戸下あたりの農家は、一月ごろは枯れ葉を集めて堆肥にする仕事が忙しいころなので、二月正月といい二月に正月をやった。一月二十七日ごろ餅をついた。

写真1 サツマ床作り

荒井でも以前は二月正月だった。松の内といって、二月十五日ごろまでは松飾りをそのまま残しておき、正月気分でこの時分まではみなぶらぶら遊んでいた。二〇年前ごろまでは、新の正月前と二月正月の名残りで一月末と、二回餅をつく家があった。
中丸では、農作業の都合上一月は木の葉拾い、堆肥作りなどをした。二月のほうが忙しくないというので二月正月をした。中丸が北本町になったころから、だんだん一月正月になってきた。農家の冬場の仕事としては、ほかに藁仕事をした。ムシロ(筵)作り、縄ない、俵編みなどである。今は、手間取りに行く。
深井でも以前は二月正月だった。麦作にとって、十ニ月末から一月にかけては麦の土入れで一番忙しい時で、一月に正月を祝えないで二月に正月を行っていた。麦の土入れをする埸合、二月になると土が凍って土を入れる(かける)ことができなくなってしまうという。昭和三十年前後に勤め人が多くなって、二月に「おめでとうございます」と挨拶するのも変だということになって新暦の正月に変わった。
これまで見てきたとおり、新暦の正月でなくて月遅れの二月正月を祝っていたのは、新暦が仕事のサイクルに合わなかったからである。かつての北本市域の農家にとっては、新暦の十二月から一月にかけては、サツマイモの出荷、米の脱穀調整、麦の土入れ、燃料や堆肥用の雑木の落ち葉かき、燃料用の薪作り、正月前のクネ(竹垣)結いなど、多忙を極める時期だった。それらの農作業を済ませて、比較的暇な時期に安心して正月を迎えるというのが、伝統的な生活のパターンだったのである。旧正月だと、その生活のリズムにうまくあっていた。ところが、新暦の正月は最も多忙な時期にぶつかってしまうので、正月どころではないということになってしまう。仕事が一段落した二月でなくては、その年一年間の平穏や、農作物の豊作を祈願する大事な歳神様は迎えられなかったのである。そこで、新しい暦を使用しながら、まるまる一月遅らせて、仕事の都合に合わせたのである。
農村部で新暦の正月が受け入れられたのは、昭和三十年代の半ばになってからである。そのころになると、機械化によって農作業の能率が向上する一方、農作物の種類の転換、外へ働きに出ての農外収入の増大など、農家をとりまく情勢の変化が大きかった。何よりも化学肥料の使用や、ブロパンガスの使用による燃料革命によって、落ち葉かきや薪作りなどの仕事がいらなくなってしまったのである。藁仕事も消滅した。麦作を中心とした農業がすたれ、勤め人が増えたため、勤め人の都合に合わせたほうが便利だということにもなった。このような農家を取りまく情勢の変化が、北本宿村から北本町へという都市化とあいまって、人々の暮らしに新暦を受け入れる素地が釀成されたのである。行政的な働きかけもあり、区で話し合うなどのこともあったようである。

写真2 正月前に結う竹垣(下石戸上)

ただ、一斉に新暦へ移行したのではなかった。職業により、地区により、しだいに新暦化していったもので、過渡期には新暦と月遅れと二回正月を行った家もある。新の正月前に一度餅をついて正月を祝い、また一月末には月遅れ正月の名残で餅をついて祝ったという。初めの二、三年は元旦だけ一月に祝い、中心は二月におくような時期もあったという。現在でも、正月前は忘年会などで忙しくて落ち着いて正月が迎えられないという理由から、あえて月遅れの正月を中心に祝っている商家もある。新暦の正月も普通に祝うが、一月末に餅をつき神飾りをして、正月から七草、小正月と月遅れ正月を行っている。
元旦を新暦の一月一日に祝うようになると、七草、鍬入れ、小正月などの正月行事と、それに続くエビス講などが新曆へ移行した。ただ、この時点で混乱し消滅した行事も多い。行事が継続されるためには、その人なりの意味づけが必要だからである。
正月十一日に行われていた鍬入れ、蔵開きの行事は、このころやらなくなった家が多い。農業に頼る比率が低下したという理由のほかに、二月十一日の紀元節の日の行事という受け取り方があったのである。そのため紀元節がなくなり、新正月になってやめてしまったという家もある。新正月になってエビス講も、一月にやる家、二月にやる家、一月と二月と二回やる家と混乱し、日取りがあいまいになってしまった。農村で行事が継続されるのは、隣がやるから自分もやるという意味あいも強い。日取りが混乱すると、意味づけのあいまいな行事は消滅してしまった。
正月行事が新曆に移行しても、盆および盆に関連する行事は依然として月遅れで行われているのはなぜだろうか。盆は、東京を除くと全国的に月遅れで実施されているという全国的な共通性に加えて、八月中旬は田の草取りと麦の調整出荷準備を終えて、秋野菜の種播きや晚秋蚕が始まるまでの、一服できる時期に当たっていること。大麦の収穫、田植え、小麦の収穫を終えて、七月十五日の天王様を迎え、田の草取りの後、盆を迎えるという、年間の農作業と年中行事の配分の上からも都合がよいことが考えられる。天王様の祭りと盆を新暦に移行すると、祭りが六月の農繁期にぶつかる。六月から七月上旬にかけての農繁期の後に天王様を迎え、一仕事すませて一月後に盆を迎える、そして一服して秋の農繁期に備えるというのが、休養の面からも好都合だったのであろう。しかし、正月が新暦に移行し、盆が月遅れのまま残されたため、秋から冬にかけて行われていた行事は圧縮されてしまった。そのため、消滅したり簡素化した行事も多い。

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