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北本この人 >> 我が道草人生

一、 社会へ出て

昭和七年二月、商業学校を卒業した。
その年は空前の就職難の年で、学校が世話出来た生徒は就職希望者、約50名中10名位で、八割の就職希望者は縁故雇用、 コネを頼り自力で解決するようにとの要請がなされた程の不況のドン底であった。
私は自家勤務の予定とした。
当時は学校が終われば青年団に入団するのは普通のことで、私も早速地元青年団に入団した。しかし、役員の左翼的発言が多く青年団はさびれるばかりのようであった。その上、団長、千代田氏の突然の死去により、新らしく団長を選出しなければならなかった。
歯科医の近江光之助先生や有志の方々の努力で栗原光次氏が団長に決った。
それは青年団の大改造と云うことで今迄の役員は総辞職、新役員で青年団は発足した。
これは、栗原氏を県会議員にするまでに持って行く、其の第一歩であった。
栗原氏を取巻く人々の間で話し合われた青年団長就任だった。
栗原団長は、スポーツ等総てについて必勝第一主義をかかげ、団員は夜間の練習に余念がなかった。
私は新入団員であったが弁論をかわれて、副団長心得弁論部長となった。弁論の方も、一町八カ村対抗で一、二番を取るべく団員教育がいそがしくなった。
秋の運動会では成果をあげ、六十四点五分の得点で断突優勝した。ちなみに、それ迄は最下位が多かった。
亦、翌春の弁論会では一、四等と入賞し、二人の入賞は上出来だった。
そうした中で私に異変が起った。それは、宮前の秋笹酒造で番頭さんが入営の為、退任した。後任に私に入社して欲しいとの話であった。父も兄も賛成で不景気の為、仕事のない家にもいられないので私は入社を決心した。
昭和十一年十一月十一日の入社であった。
「月六催」と云って市の立つ日が鎌倉時代の座の残りで在った。
一、六行田。二、七熊谷。三、八吹上。四、九鴻巣。五、十桶川。で一日仕入れは六日に勘定することになっていた。地場回りをすることが私の毎日の仕事であった。思い出に残ることと言えば、最初売込み、次は割り当統制、そしてやみ配給の三段階を経験した。最後には廻り番頭の用もなくなってしまい退社せざるを得なくなった。失業したのである。
代って当時、鴻巣で地区商業組合を三十二町村で作る計画があり、私に書記長就任の交渉があり商工省の認可待ちであった。
私はそのため一時、栗原光次氏の埼玉県製綿工業組合の仕事を手伝った。結果的に地区商工組合に対する商工省の認可はなく、製綿組合の書記長となってしまった。
昭和十六年、工業簿記の整備を考えた。それ迄は大福帳的単式簿記であったが帳簿を買り入れて、精算に当たろうとした。配給された綿がいくらあるか、まだ未配のがどの位あるかその明細を複式簿記で記載しようとしたのである。
栗原光次氏(以下本店と云う)が、いくら出し越しになっておるか皆目見当がつかない。
いろいろと手を使い、試算表を作り本店に聞き「その位だろう」と云う処を押さえ、本格的記帳を始めて、どうにか廻り始めたのは半年後のことであった。
一応、組合の帳簿としては一目瞭然整理、且つ明瞭にわかるようになった。
そうした中で私は昭和十六年八月一日、入隊の召集令状を受けた。後事を製綿組合職員に託し出征した。東七四の先と云う令状で東部第七十四部隊へ到着、入営検査した。
私は二十五才の時、秋笹酒蔵でたるをかついでいて背骨を折った関係上、補充勤務になった。同時に招集された戦友達は出戦部隊として一週間ばかりで出征した。後で解ったこの部隊はガダルカナルヘいった上、 コカンボ放列で「死体は発見せざるも全員戦死」と云う結果になったのだった。
思えば私も背骨の骨折がなければ此の部隊であったと思うと正に軍隊は運隊、(人間万事塞翁が馬)だなあとつくづく思った。
私は一期の検閲を受けたあと、機動九〇式野砲を修習した第一回生であった。後期初年兵が期別入隊して来るので教育助手として二年間を過した。
其の後、筆の細字を書いて提出せよと云う秘密募集があった。軍隊内だけの募集で私の筆を知っていたらしい。私も応募した処合格し、其の後は当時の極秘事項、参謀本部の国軍始って以来、四回目の動員計画の策定されたものを作成、印刷する仕事であった。
私は筆工として一日四枚の原稿を書いた。それも主筆、次席、三席、四席、五席の筆工が居り、各々の者の同数づつ五部作るのである。つまり、主筆事故あれば主筆は勤務下番、次席五番迄が繰り上げとなる。 一ツ仕事に五倍の準備してかかって居るのであった。
これらの仕事も一応事故なく書き上げ終った。亦、在営中の喜びをもう一ッ思い出す。
それは、鴻巣の綿工連の幹部が面会に来られたことである。面会の知らせに私は何だろうと早速とんでいった。すると綿工連の皆さんがそれぞれ帳簿を分けて御持ちになっておられた。
話を聞くと、配給が余り闇に流れていたことから日本中の県綿工連が東京の連合会に呼ばれ帳簿の検査をされたのだった。
検査の結果は日本一の記帳の典型と褒められ「私達はうれしくて君の労苦に対し改めて感謝の意を表するため、面会に来た。」と云う事であった。思えば私が半年間かかって整備した帳簿の労苦が報われて本当によかったと思った。

昭和十九年二月十五日、私は召集解除になった。
鴻巣駅へ着き、氏神、鴻神社へ参詣した。真っ暗な社殿で「只今帰郷致しました。」と報告した時、何か大きな手でだきかかえられるような感触を受けた。
壮厳な社殿で本当に嬉しかった。
帰ってからは、近江光之助先生に相談し、軍事工場、英工舎に入社することになった。
もともと英工舎は時計工場であったが爆弾の信管をつくる工場になっていた。戦後長いこと駅のホームに下がる大時計は英工舎の作ったものであった。私は工具整備係りとして入社、半年後に工具整備係長となった。
私は係長手当を受け取って妻と相談した。
「私が異例な昇進したのは祖母が母替りを勤めてくれ、埼商卒となれたのも朝早く起きて御飯を炊いてくれたからだ。此の係長手当がいくらあるか知らないが、祖母の手で開けてもらい半分を祖母にあげようと思う。」と話すと妻も大賛成であった。

早速、本家へ行き、祖母に開いて貰ったら、十円入っていた。当時の十円は米60キロが買えた額だ。五円出すと祖母は泣いていた。私も涙が出た。父も義母も泣いて喜んでくれた。其の後、それは毎月繰り返された事である。
昭和二十年八月十五日終戦となった。
私は工具整備係長として各、下請工場に発註していたものの戦後処理に取りかかった。
注文品の完成、未完成、手つかずのものがそれぞれいくつあるか調べた上で、それはそれなりの代金を払って終わる。
発註を取消の出来るものは取消し、出来ない品については、四分六の割で会社六割負担で片付けた。又、其の後必要になったものには四割負担で買入れする事も定めた。
其の後、英工舎の戦後処理中に知り合った臼倉木工所(深川毛利町にあった)社長、臼倉定吉氏が見えられ「戦後処理の鮮やかさに驚くと同時に感服した。ついては金は全額負担するから土地を探してくれ、木車の一貫作業工場を作って工場長となり、東京へ送れば利益は半々とする。」と云って新円切替の終った後で新円十円札で大金を置いて行った。
私は早速工場設立の為努力し、工場二棟を建てた。臼倉木工場、北本宿製作所と名付け工場長として工場の経営をまかされ独立採算制をとった。
昭和二十三年六月開業したが、茨城県に26万坪の採掘権を持っていた臼倉氏が金鉱経営に乗り出し失敗し、工場は競売となる状態となってしまった。工場は小池樟介と云う人に売られていた。
小池氏は私を引き続き工場長として雇用することで話をつけ乗り込んで来たが、なかなか金が廻らず三カ月許り遅配のような状態になっても地代も払えぬ状態であった。
私は地主さんを尋ね、実情を話し、昨年迄の地代は私が給料の中から分割で支払って猶予して頂き、今年分は小池氏に土地を貸して頂き地代は小池氏から受取って欲しいとお願いした。翌年、 一月になると正月分として三カ月の給料が入った。
私は自分で使いたかったが地代五万円を地主に払い、家で使ったのは二万五千円で正月は本当に苦しかった。
二月中頃、地主さん達が私の処へ来られ是非土地は「岡本さんが借りて欲しい」と云う話で私は「家のない者が土地だけ借りても仕方ないし、亦転貸しすれば地主は解約出来ると云う法律もあるし、是非これは勘弁してくれ。」と願ったが地主さん達は「何れにしても又貸自由、地代だけは岡本さんの手から欲しい。」と云うことであった。
とうとう往生して借り受けた。後に此のことが自分に大きく作用する等とは夢にも思わなかった。
四月になると小池氏は夜逃げ同様に引き払って出て行ってしまった。
四月中頃になると常盤相互銀行から工場明渡しの話があり競売にするとの話があった。
此処で私は「借地権は俺が持っている。工場の明渡しより先に此の工場を徹去せよ」と云った。すると常盤相互銀行は「工場を競売するから是非買取ってくれ」とのことであった。
しかし、私は「金がないから買えない、いやだ。」と云うと相互銀行では「金を貸すから引き取ってくれ。」とのことで私が落札した。
此の当時が一番苦しかった。
金詰りの不景気だったが何とかなって、工場も晴れて(岡本木工所)として昭和二十六年六月二十一日開業、今日(平成六年八月)に至っている次第である。

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