北本市の埋蔵文化財
宮岡氷川神社前遺跡発掘調査報告
早川智明 吉川国男 石井幸雄
岩井住男 土肥 孝
6 考察
(1)遺跡立地の問題
繩文晩期の前半期と後期における遺跡分布は、それぞれ大きく異なっている。ことに、埼玉県についてみると、前半期の遺跡は新郷貝塚、猿貝貝塚、 卜伝貝塚、真福寺貝塚、浮谷貝塚等を筆頭にその他多くを数えることが出来るが、後半期についてみると遺跡は今のところ皆無とさえいって良い状況にある。これに対し、千葉県下、茨城県下では旧海岸線に近い所に後半期の遺物が散布する遺跡の所在が比較的多く知られており、そのうちのいくつかは、発掘調査もされている。当地方からすれば、それらの遺跡がある地方は東及び東南の方向にあたっているが、東に厚く西にうすい後半期に於ける遺跡分布のこうした傾向を理解しようとする時、そのよってきたるところは必然的に「奥東京湾の後退」と「多く海産に依存していたであろう経済基盤」及び「ある種の社会現象」「文化の停滞性」等、自然の要因と人為のなす要因とに求めざるを得ない。つまり安行式土器製作の主体者は、晩期初頭より東北地方の文化を「受容」(大洞式土器の移入・伴出)しつづけ、中葉に至っては当該文化と「融合」(大洞系土器要素の摂取による安行式土器の東北ナイズ)するところまでいたっていると理解されるが、東北文化が全国的な停滞性のなかにあっても主として漁撈による“より豊かな経済、文化"にあったとすれば、それを受け容れることに積極的であった安行式土器製作の主体者もやはり漁撈民としての性格が強い人々であらたと考えられるので彼らが奥東京湾汀線の後退に伴なって、海産を求めて徐々に移動していったと思考してよいように思われる。その結果、先に述べたところの内陸埼玉の遺跡消滅という現象になってあらわれたと考えたい。尤も、そうした動きは前半期と後半期の遺跡分布の対象に求められる前にすでに前半期のうちにおいて胎動しはじめていた様子がみられる。その一つは前述の大洞系土器の摂取であり、 他の一つは県内における該期の遺跡が北足立台地の東南部(海浜地帯)に密集し、西北(内陸)は稀薄な分布を示しているところにもあらわれていると言って良い。今回発掘調査した北本市の宮岡氷川神社前遺跡もやはり晩期前半期の遺跡であるが、以上の遺跡分布上の位置からすれば、およそ遺跡所在の稀薄な他にあり、すでに内陸的環境下にあったことが考えられる。宮岡氷川神社前遺跡の西側には現在殆んど距離をおかずに荒川低地につながる狭長な小支谷が入り込んできている。遺跡はその谷頭台地上にあるわけであるが、なぜかその台地上西方(谷の北及び南側―宮岡遺跡―)には広がっていない。旧石器時代から繩文時代早~後期、古墳時代の鬼高期、及び国分期にいたるところの弥生期を除く殆んどの時期に居住地として占地された西方台地上を安行期の人々が何故に居住地としなかったのか、不明であるが、それは何故に彼等が内陸的環境の地を選んだかということと共通の原因があったとは考えられないだろうか。つまりこの狭長な支谷の奥(宮岡氷川神社前遺跡の眼下)にはいま弁天社をまつる小沼があるが、これが往時は今より規模も大きく宮岡に集落を営んだ漁撈民の経済上の主たる基盤になっていたと仮定―けだし、この推論を他の内陸面にある該期の遺跡にまで発展させて考えられるものかどうかについてはなお具体的な検討も進んでいないので今は筆者にとって後日の課題としておきたいと思う―してみたいのである。
ただ、それをしてもなお後半期に至って彼らの移住があるのは、内陸にあっては解決し得ない状況「経済上のゆきづまり」に直面したからであろう。その原因の一つとしては人口の増加も又推論として成り立つ事項であろう。(早川智明)