北本市の埋蔵文化財
宮岡氷川神社前遺跡発掘調査報告
早川智明 吉川国男 石井幸雄
岩井住男 土肥 孝
6 考察
(2)遺構等について
宮岡氷川神社前遺跡における今回の発掘からは安行期の住居址と思われるものは発見されていない(註1)が、これまで県内で確認された例をみると、奈良瀬戸遺跡の1例、真福寺貝塚の2例、東北原遺跡2例等、いずれをとっても一辺6~7メートル前後の大型住居址になることが明らかであり、住居址の小型化は認められないのである。つまり、竪穴住居址の大型化を人口の増加によるものとみれば、この社会的現象が必然的に経済上のゆきづまりをより深刻なものにしたとの関連解釈が出来よう。天明の飢饉の一因を人口増加にあるとする説があるが、この論理をそのまま繩文晩期に当てはめてみるのは冒険であろうか。次に宮岡氷川神社前遺跡の第一次、第二次発掘の概要を比較してみると、第一次発掘地点は第二次の発掘区より約20メートル東奥にあって、それぞれの発掘によって得られた内容も異なっていることが分かる。出土遺物からみれば、第一次の発掘地点から採取された土器片は主として帯繩文を有する類で晩期前葉に属するものであり、第二次発掘により得られたのは中葉の沈線のある土器である。この遺跡では特にこうした土器型式の違いを包含層の上下関係にみることは出来なかったが、このように地点によって概ね区別することが可能であった。なお、第二次発掘資料をみると明らかなように、採取された土器は組成(セット)としてみるには不足の形態が多いことに気付くであろう。これは該期の明確な住居址が発見されていないことと合せ考えると、発掘箇所は遺跡の核心から少し離れた場所であると思われる。そして現地の地表観察からすれば核心は第一次発掘地点を含む周辺であって、第二次発掘区の東側寄りにあるものとみられる。聞くところによると、その地点は上武国道の建設予定地に入っているとのことであり、いずれ近い将来に発掘されることになるかも知れないので、遺跡の全貌はその機会に第一次及び第二次発掘の各地点の性格上の位置づけも合わせ、明らかにされることであろう。但し、宮岡氷川神社前遺跡は北足立台地東南部の各遺跡に比較してかなり小規模な遺跡としてとらえられるし、逆にそのことが当地方の該期の遺跡の一般傾向にもなっているのである。
最後にもう一つ気付いた点を記述すれば、遺物包含層中にあった焼土の存在である。以前、奈良瀬戸遺跡が発掘された折(第二次、第三次)にも実見の機会を得て気付いていたことであるが、 ローム層より上の腐植土層中に、住居址内の炉に似た規模のしかも一概に他から廃棄されたとは思えない焼土の存在が少なくとも10カ所近くあった。宮岡氷川神社前遺跡の場合、これに似た焼土はわずかにこの1カ所にすぎないが、この焼土はどんな性格のものなのだろうか。安行期の遺跡はこれまで数多く発掘され、各遺跡からそれぞれ多量の遺物が採取されていることは周知の事実であるが、一方これに伴なう竪穴住居址の発見例がごく少ないことも見逃がせない事実である。そこでこれも推論の域を出ないが、前記の焼土の存在と合わせ考えると、該期における住居址は必らずしもローム面まで掘り込んでいなかったとみることが出来るかも知れない。だとすれば黒色土層中の焼土は住居址内の炉跡と考えられるし、これまでの遺物量に比すべき住居址発見例の少ないこともうなずける。かって裏慈恩寺遺跡が発掘されることになった時、その点の探索にも留意して欲しいことを安岡路洋氏、小川良祐氏に依頼したところ、発掘終了後両氏より腐植土層中より、竪穴住居址らしきものを発見したが、技術的にむずかしく具体的検出が不可能であった旨のご教示を得たことがある。したがって、今回の場合も同様このことについての探索をしたかったのであるが、結果的にはやはり充分な結論を得ないまま、調査を終了している。ただ、この焼土は遺物を最も多く包含する第二層中にあった事実を念のため附記しておきたい。又、本遺跡からは所謂製塩土器とみられるものは出土していないことも特記しておく。
おって、本遺跡は洪積台地上の遺跡であるが、安行期の遺跡は多く泥炭遺跡を伴なうことがある。真福寺泥炭遺跡はその代表的なものとして知られているが、他にも井沼遺跡、膝子遺跡、小深作遺跡等々にみられるし、奈良瀬戸遺跡の第一次発掘調査の折も、最終日の夕方に水田面に試掘溝をおいたところ同様泥炭層より土器の出土を見、泥炭遺跡が付随していることを確かめたのを記憶している。宮岡氷川神社前遺跡の場合は、たまたま諸々の事情があって同様の試みを実施していないが、これも近い将来に行ない、遺跡の性格について検討してみたいと考えている。
以上まとめとしては蛇足的なものになってしまったが、主として宮岡氷川神社前遺跡の位置づけを中心に記述してみた。先学諸氏のご叱声ご鞭撻が得られれば幸である。(早川智明)
註
1, 一基発見されている竪穴は内部に炉を有さないもので、住居址として良いものかどうか、前項土肥の記述にもある通り不詳である。仮に住居址であるとすれば、プランが隅円長方形になり、当地方の安行期のものとしては普通のものである。現在県内で確認されている奈良瀬戸、真福寺、東北原等の住居址はいずれも方形又は隅円方形である。ただ、秩父市木戸原遺跡では円形プランの竪穴住居址があったということを亀倉貞雄氏から聞いているので後日確認してみたいと思っている。