北本市の埋蔵文化財

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北本市の遺跡と遺物

城中・市場遺跡群

25.石戸城跡 大字石戸宿
城跡は、荒川の左岸の台地縁にあって、二股状にのびる支谷の出口の部分に占地している。標高は26メートルあり、東・北・西の三方との比高は9~10メートルの差がある。
城の西側は、荒川の河床に断崖をなし、 川越しに比企郡の城塁や川越方面の諸城を遠望することができる。また、北側と東側とは支谷の湿田(当時は沼)がまわっており、軍事、戦略上きわめて要害の地となっている。南側だけが台地続きとなり、桶川市川田谷方面と接続している。なお北側には城ケ谷堤が築かれて1北方の横田台地と結ばれている。
城域は、東西135メートル、南北228メートルあり、形態的には長方形の平山城である。城域の北に寄った部分が本郭跡と言われ、土塁が三方に残存している。その南側がこの郭で、東側に長い土塁を走らせている。南側の土塁は残有していない。
石戸城は昔、天神山の城と唱えられ、扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が居城した所と伝えられている。永禄5年(1562)上杉謙信は、岩槻城の太田資正の要請により、越後から出張したときこの城へ来ている。のちに北条氏邦のために水攻めにあい、上杉氏の将、宇佐美定勝は討ちとられたという。
この城は岩槻、川越、松山三城の連絡的な役目を果たすために、室町時代さかんに利用されたものであろう。
参考文献
「関八州古戦録」人物往来社。「新編武蔵風土記稿」雄山閣。「埼玉県史」埼玉県。「日本城郭全集」4 人物往来社。「埼玉の館城跡」埼玉県教育委員会

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