北本地名誌

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Ⅰ 北本市の概観

3 沿 革

 (2)吉代・中世

〔御家人石戸左衛門尉〕古代・中世を通じて、本市域の状況を語る史料は乏しい。中丸地区は、摂関時代には深井荘に属していたというが(埼玉県史)、石戸地区については不明である。
時代がくだって鎌倉期になると、開発領主的系譜に属する武士として、大字石戸の堀之内を根拠地とした石戸左衛門尉があらわれる。石戸氏は寛元年間には幕府御家人として史料に登場しており、石戸の地を姓とした武士団の成長が認められる。その館跡であったとされる堀之内館跡の規模は、断片的に残された空濠跡などからみてかなり大きなものといえる。また、この近辺を通る鎌倉街道や板碑もひとつの傍証となろう。たとえば、石戸宿の東光寺からは10基以上、高尾の阿弥陀堂からは20基と多数の板碑が出土しているばかりでなく、建立年代も古く貞永2年(1233)を最古として、鎌倉期のものが大半を占めている。
〔石戸城〕石戸宿の北部、荒川(もと吉野川河道)に臨む台地上に、一名天神山城とも呼ばれる石戸城跡がある。面積3万5,OOO㎡に及び、土塁や空濠も一部残存している。長禄年間(1457~'60)太田道灌が松山・川越・岩槻の各城との連絡のために築いた1支城、砦と伝えられ、道灌の家臣藤田八右衛門が城主であった。
小田原北条氏による武蔵攻略以後は、たびたび城主が交替した。永禄5年(1562)北条氏邦によって攻略されたあとは、北条氏の家臣依田大膳亮が入城したが、徳川家康の関東入国後廃城となった。
この間本市域では、応永15年(1408)銘のある大里郡折原婆羅門社の懸仏に、石戸郷下法師谷村の,沙弥妙伏が奉納している。ほかにも熊野御師の勢力が及んでいたらしく、旦那書上の中に、伊藤兵庫、伊藤藤二郎、飯野孫七郎、新井神二郎・彦三郎、いしとのよもん坊という御師の名前も登場する。
戦国末期、北条氏の太田助次郎は、 5年間は無役の地とするから開発に精を出せ、と別所村百姓中に命じている。その3年後、家康関東入国の1か月後に、石戸(八幡原・さうしき)の地は、他村とともに牧野氏に宛行われている。

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