北本地名誌

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Ⅰ 北本市の概観

4 行政区画の沿革

北本市域に関係ある郷・荘(庄)・保・領名は次のとおりである。
余戸郷、石戸郷、鴻巣郷、深井郷
深井庄
石戸領、牧野領、鴻巣領
これらの範囲や由来等については、不詳なところが多い。Ⅱの大字の沿革のところで散見するが、ここでは、現在までに判明した石戸郷について、若干詳しく触れておく。〔石戸郷〕 この名は、中世室町期からみえる郷名である。初見は応永15年(1408)12月2日の年紀銘のある大里郡折原村(現寄居町)婆羅門社の懸仏に、「武州足立郡石戸郷下法師谷村」とみえる(武蔵銘記集)。また、室町期と推定される米良文書所収の年月日未詳の旦那引付注文写に、先述したように、「武蔵足立郡石戸郷伊藤兵庫、同郷伊藤藤二郎、同郷飯野孫七郎、同郷新井神二郎、同郷彦三郎」、「石戸郷真如坊」、「石戸郷真輪寺」と見え、江戸期の下石戸下村の小名刑部谷の記載によれば、伊豆国(静岡県)伊東の土豪の一族が当地に居住していたという(新編武蔵)。紀伊国(和歌山県)の那智熊野神社の先達の旦那職を彼らが所持していたことがわかる(米良文書/熊野那智大社文書)。 当時は上杉氏領に入り、天神山城(石戸城)が築かれ、上杉氏の家臣道灌の臣藤田八右衛門が城主であった。しかし交通の要衝であったため戦国期には上杉・小田原北条氏間で攻防をくり返し、大永4年(1524)4月10日、江戸城を奪取した北条氏綱は当地に伝馬掟を出し、相模と武蔵を結ぶ交通路をおさえた(関山文書/相州古文書)。永禄2年(1559)2月10日の北条氏裁許印判状に長尾景虎(上杉謙信)が石戸に出張(出陣)した旨が見える(武州文書)。戦国期に当郷は石戸・下石戸・高尾・荒井の4か村に分村したとも推定されているが、他方小田原北条氏滅亡後の天正18年9月7日の伊奈忠次印判状には、石戸のうちの八幡原、さうしきの2か所を旗本牧野半右衛門の知行として与えており、江戸初期の石戸宿と下石戸村はいまだ一体であったとも考えられる。

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